建築道(みち)19 ・・不器用な男 

 「シマッタ!」彼は薄っぺらな封筒を手に後悔した。「辞職宣言はボーナス後にすべきだった」。それはそうだ。それまでいかに尽くしたとしても、会社を辞めることは反旗を掲げるに等しい。そんな社員に通常のボーナスを出すはずがない。それは極めて当たり前のことで、社会の厳しさを教える会社からの餞別だったようにも思う。このように彼は世間知らず。この不器用な男が独立して建築界で生き残れるだろうか。しかし「自分は不器用な男ですから」と高倉健さんも言う。不器用は悪い事ばかりではなく、目の前のお金を気にすべきでない‥と、彼は気を取り直す。その後独立当初、退職した会社にはいろいろお世話になることになる。

 不器用と言えば彼にはもっと気掛かりなことがある。彼は南東北生まれだが江戸っ子気質を持つ。「宵越しの銭は持たない」それまで(最近まで)貯金をしたことがなく、小金を持つと落ち着かなくなる性分なのだ。もしかすると、高齢親はその性格を心配して早く結婚させたかったのかもしれない。江戸っ子気質の彼はツレがいないとやっていけず、それは彼自身も良く分かっていた。そのため結婚後のお金の管理はすべてツレに任せているし、独立後もお金の管理は厳しくツレにやって貰わなければ潰れてしまう。

 独立には資金がいる。しかしボーナスは少なく、退職金も期待できず、本人は貯金ができない江戸っ子気質。資金を親族に頼る訳にはもちろんいかない。いくら世間知らずでもそれぐらいは理解している。時はバブル絶頂期、彼は少しばかりの株を所有していて、それが独立資金となった。今考えると、バブル崩壊を直前の独立は景気後退により建築着工件数が減る時期と重なり、決して良い時とは言えなかった。しかし株による資金調達からすれば良い判断だった。家族を思えば、彼はその時期を逃せば独立を果たせなかったかもしれない。

 仕事のけりをつけるために、彼は辞職宣言から4か月後に会社を去ることになった。妙に長く少々気まずい感じはしたが、その間に独立の準備をすることも出来た。その中で最大の問題は「whereどこ?」で設計事務所を開き、家族と何処に住むかだ。彼は独立を決めたが、その場所は決まってなかったのだ。

 候補は3か所。候補1は東京都内。建築の需要が多く仕事がたくさんあり、同級生の多くがそこで働いていた。しかし夫婦とも田舎者であり、はたして生活できるか確証が持てないので却下となる。候補2は生まれ故郷の街。商工業が発展していて知人も多く安心だが、そこで独立が失敗すれば戻るところがなく後が無くなる。親族友人に建築関係者もなく、安全策を取り候補から外した。候補3は昨年まで住んでいた福島。それまでそこに6年間住み、その間知人も出来た。1年間離れていたがまだみんな覚えてくれてるだろう。夏は暑いが人も自然も素晴らしく、豊富な果物や温泉は夫婦とも大好きだ。そして県庁所在地であり県内で1番所得額も高く、きっと良い家を建てたい人が多くいるはず、さらに故郷にも近い。独立場所は福島市とした。福島での独立を思った時のドキドキは雨上がりに雲の間から陽が差し込み、植物が光に輝き歓喜の歌を合唱する感じがした。彼は福島に恋をして、ここで独立をすることに決めた。

フランス マルセイユ