建築道(みち)30 ・・イタリーの衝撃

 その昔、都市国家が乱立していたイタリア、行く先々の街が違う顔で、特に小さな街は個性的表情が際立つ。彼は夢中でカメラのシャッターを切り続けた。

 バスは花の都フェレンツィから90km程のピサを廻り、シエナに向かう。

 ピサは大聖堂で揺れるシャンデリアを見て振り子の法則を発見し、斜塔で落下の法則の実験を行い、宗教裁判の際に「それでも地球は回る」と言い放ったガリレオ・ガリレイが生きた街。その大聖堂と斜塔を見学し、塔を支えるお決まりの写真を撮ると、突然カメラが動かなくなる。電池切れだ。当時はデジカメでなくフイルム式カメラだったが、彼はフイルム式カメラが電池切れになるという認識がなかった。カメラは1台しか持ってきてない。このピンチに彼は慌てた。まさかそこら中が絵になるような所でカメラの電池切れになるとは・・・。おまけにそれはボタン式電池だった。言葉が通じないところでボタン式電池を見つけ購入するなど至難の技。カメラとボタン電池を手に可能性のある店を片っ端から探し廻った。何軒かのところで発見!無事カメラが動き出した。彼は「グラツィエ、grazie、サンキュウ ベリーマッチ、ありがとう」と連呼した。それは砂漠で井戸を見つけた様な感覚だった。それ以来、旅には2台か3台のカメラを持って行くことにした。

 しかし喜びもつかの間、ピサの斜塔の公園に戻るもすでにツアー一行の人影がない。一行はすでに別の場所に移動していた。彼は電池切れ以上のパニックになり、慌てて周辺を探すが見当たらない。・・・少し冷静になると「到着した同じ場所から1時間半後にバスが出発する」という事を思いだす。彼はバス出発場所を確認して、ピサのドゥオモ広場や先程回った土産物屋をじっくり回り、ツアー一行を待った。ピサからシエナへのバス車中で「見かけなかったけど?」などと言われたが「ドゥオモ広場をじっくり見学」などと平静を装った。

 扇状に傾斜している勾配のカンポ広場が中心の街シエナ。17のコントラーダ と呼ばれる地区に分かれている。夏に2回パリオと呼ばれる祭があり、祭りメインの広場外周を廻るコントラーダ対抗の競馬が有名・・そんなシエナに冬に一泊。早朝に丘の丘陵地にサン・フランチェスコ聖堂のあるアッシジに向かう。アッシジは眼下の農耕地に靄がかかり幻想的風景を見せてくれた。その後一路ローマに向かう。「全ての道はローマに通ず」などと思いながら意識が薄れ車中爆睡となる。

 気が付けばあのオドリー・ヘップバーン休日の都市ローマ。オードリーと同じ場所を巡る。スペイン階段付近で怪しげな人影が彼ら一行の後に付いてくる。ガイドが「スリがいるので気を付けて」と言う。彼はリュックを確認、怪しげ人等をにらむ。やがて彼らの警戒に諦めたのかいなくなった。一行は「バルカッチャの噴水」で後ろ向きにコインを投げ、再びここに来ることを祈った。しかしオードリーの様にジェラートを食べることはしなかった。カトリック教徒の総本山バチカンサン・ピエトロ大聖堂には度肝を抜かれた。彼は信者ではなかったが、内部に入ると壮大で厳かな雰囲気が「神の存在」を思わせた。彼は京都・西本願寺でも同じような感覚になったことを思い出した。

 始めての欧州、イタリアはどこに行っても素晴らしかった。BC6世紀から続く繁栄の歴史に圧倒され続けた。欧州に留学した建築家は帰国すると和風建築を作るようになると言うが、合点がいく。この環境の中で生まれ育った建築家と欧州建築デザインを競っても勝てるはずがない。自分の生まれ育った文化を基礎とする建築の追求無くしては勝負にならない。西洋かぶれは本物にはなれないと悟った。彼にとっての今回の旅は、今までのデザイン手法を見直さなければならないほどの衝撃だった。

1990イタリア ローマ コロセウム

 余談だが、

 イタリア研修旅行の40日ほど前、彼は劉邦M氏〈建築道16参照〉と酔った勢いで「1か月で10kg体重を落とせるか」の賭けをした。その時の彼は結婚後8年間で15kg太り、運動不足も甚だしかった。一方、M氏は痩せていて1か月で10kgも体重を下がるなどイメージできなかったと思う。しかも年末年始の普段なら増える時期に。それから1か月、彼は朝食以外を蕎麦食とし、朝にジョギング、夕方には直前に入会したスポーツクラブでジム・水泳・サウナを毎日こなした。そして研修旅行3日前に1か月10kg減量を達成!し、ただ酒をゲットした。しかし急激に痩せたことからズボンがぶかぶかとなるなど、ファッショナブルなイタリアでの服に困ることになる。さらに急速減量による腰の違和感も抱えての旅立ちとなった、重い鞄を持って。心身ともにハードな「イタリーの旅」だった。しかし帰国時には3kg太ったことはM氏には伝えず土産を渡した。半年後には元の体重に戻ってしまったのだが・・・。