建築道(みち)20 ・・旅立ち前のプロジェクト

 年が開け間もなく昭和が終わる。彼の初めての独り暮らしの2か月間は順調に進んだ。ただその間、酔って炬燵に寝て足に低温火傷を負うということはあったが・・。ツレも病院を退院し実家に戻り体力も回復してきた。子供たちは相変わらず元気だ。その間、彼は毎週末片道高速道300kmを通った。

 彼らは設計事務所の開設のため、福島市に引っ越し先を探さねばならなかった。独立後の仕事は見通しがなく、出来るだけ経費を抑える必要があり、事務所兼用住宅が可能な物件を望んだ。住まいとしては以前住んでいた団地がよかったが、公営だったので事務所を開くことができず断念した。当時インターネットはまだ無く、物件探しは不動産情報誌であたりを付け、不動産屋さんに連絡して条件等を聞く方法をとった。そしてこれという物件があれば、平日にツレが物件を見に行き候補を絞り込んだ。彼女が今いる実家と福島とは50km程離れている。ツレは福島まで電車で行き、団地友の車で物件を見て回った。体調は回復したと言え病み上がりのツレ、団地友の協力はとてもありがたく、友の優しさは夫婦の独立への不安を和らがせた。 

 住まいは出来るだけ職住分離が可能で、設計事務所に相応しいところを望んだ。週末には彼も福島に行き探した。2候補が見つかり、それは街中と郊外の物件だった。街中の物件は少し古い中庭形式のRC共同住宅。郊外の物件は進行住宅地に建つ新築のおしゃれなRCマンション。どちらもそれほど広くなかったが、その中でも比較的広く明るい郊外のマンションに決めた。

 そんな時、彼の元に千葉県に住むちぃ姉から「購入する土地を決めたので家の計画を作って」と電話があった。「会社を辞め独立準備中で落ち着かなく、忙しい」と言うと、「大丈夫、大丈夫。計画やって貰えば大工さんに作ってもらうから。土地写真と測量図送るよ。急いでるので、よろしくネ」ガチャン!「まず土地を見ないと・・」と言いかけたが電話を切られた。ちぃ姉は簡単に考えている・・・彼は相変わらずだと思っい少し嬉しくなった。

 ちぃ姉の家族は夫婦と小学生の男子二人の4人家族。義兄は銀行員と仕事柄少々お堅い。それは一家がそれまで転勤で各地を廻り、やっと拠点が定まったというめでたい話。同じ地域育ちのちぃ姉夫婦は「故郷の木材と大工さんによる家」という構想を持っていた。千葉と故郷は250km程離れ、そこに故郷の木材を運び故郷の大工さんが泊りがけで作り上げるのは大変なことだ。しかし彼ら夫婦の仲人でもある義兄の父が手配することが決まっていた。まもなく引っ越そうとしている彼の住まいから建設敷地までは550kmほど離れていた。直ぐに現地は見れないが、ちぃ姉一家のお祝いとして計画案作成だけを引き受けることにした。送られて来た敷地と周辺写真、測量図、何回かの電話での聞き取り打ち合わせで進め、低温火傷が治りかけた引っ越し直前に計画案をまとめた。

 敷地は東側がバス通りに接していた。そこでの計画案はプライバシーを大切にした居間と食堂と寝室に囲まれた中庭デッキのある家とした。住まいの中心に食堂とキッチンを設け、開放的で明るく家族が集まりやすい空間にちぃ姉の笑顔を重ねた。

 思えばそれは彼が辞職宣言からの設計依頼第1号プロジェクト。この独立の年はツレの入院に始まり、彼の独立、親族が3人入院し1人が亡くなるという大変な一年だった。そんなこともあり彼は第1号プロジェクトを完成した後に見届けることになる。

ロッコ サハラ砂漠