建築道(みち)23 ・・バブちゃんの無鉄砲な挑戦

「40、50はな垂れ小僧。60、70は働き盛り・・・」と渋沢栄一が言うが、よく建築家も同じように言われる。そうすると彼の30才独立の戦いは「よちよちバブちゃん」が挑んだようなものと言える。孔子の「論語」を真に受け「三十にして立つ」ってしまったのだ。今思えば世の中を知らないというか、建築業界に疎(うと)いというか、若かったというか、向こう見ずというか・・いろいろ驚かされる。案の定、彼の独立後は想定外のことばかりだった。無知とは恐ろしいが、一方、乗り越えると新たなエネルギーが生まれるという側面もあった。 

 それまでの彼は7年間住宅メーカーで設計者として働いた。当時の住宅メーカー界は業者間の繋がりはほとんどなく、他社とは常に競合・ライバル関係にあり、他の住宅メーカーの設計者に会うことはあっても、あいさつ程度でほとんど話をしたことがなかった。一方、一般建築業界は時には受注競争をするが、ある時は協力しながら建築を行う大人の世界で、業界全体に横の繋がりがあった。建築業界内の一部、設計業界もしかりで、建築士会・事務所協会、建築家協会、設計協同組合などの団体があり、これら様々な組織の繋がりがある。しかもほどんどの人がそこで育ち建築を学ぶ、昔からの顔なじみである。よちよちバブちゃんはそれらの内情を知る由もなく、考えもしなかった。彼が設計事務所を始めると、業界の人々は「あいつは誰だ!」「今までどこに?」「どこの仕事を?」などと突然降って沸いたような男に驚き、扱いに困った。ある建築会社社長は彼に「あなたの様な独立は30年に一人だ」と言ったが、それはただの冗談ではなかった。 

 さらに住宅建築業界と一般建築業界の繋がりもほとんどなかった。独立前に電話帳で市内の設計事務所を数えると100以上あったが、それまで彼はその中の1社としか接点がなかった。住宅メーカーから建築家として独立することは、まったく新たな世界に飛び込むに等しかった。さらに生まれも育ちも福島市でなく彼の幼少期を知る人はなく、知り合いもほんの一握りしかいない。設計者として大きな実績がある訳でなく、名が売れている訳でもなく、有名な設計事務所にいた訳でもなく、自分の才能に絶対の自信がある訳でもない。そんな中の独立は彼の無鉄砲から出来たことで「良い建築を造りたい!」「家族の笑顔溢れる住まいを造りたい!」の情熱の熱に浮かされたような無謀な挑戦だった。 

 事務所運営見通しも甘い。彼は何となく「事務所経費もあるので売り上げが400万円は必要だろう」と思っていたが、実際独立して事務所を運営するとその3倍必要だった。しかも独立前には仕事の見通しは全く無く、設計料を幾らにすれば良いかも分からなかった。ここまで続けられたのは“大きな勘違いからの奇跡“と呼べる。独立から35年を迎えるが、福島で同じような勘違い建築家はいまだに聞かず、極めて稀な存在だ。彼のツレは今までやってこれたことに対して、「あなたは福島、そして社会に感謝して生きるべき」と言う。

 彼は設計事務所の登録を終えると、建築士会と事務機屋さんが進めてくれたJC(青年会議所)に入会することにした。こうしてバブちゃんのよちよち歩きが始まる。

中国 新疆ウイグル自治区 トルファン