建築道(みち)31 ・・設計コンペでの贈り物

 もう少しで21世紀を迎えようとしていた頃、この国ではバブル崩壊真っ只中にあり、都市銀行住宅ローン変動金利が1990年8.5%に上昇、その5年後には2.625%と急降下した。その間には、「ちびまる子ちゃん」のTV放送が開始され、宮沢りえ写真集が出版され、きんさんぎんさんが人気者となり、Jリーグが開幕して、非自民の細川政権が生まれ、阪神・淡路大震災発生、という怒涛の5年間だった。そして少子高齢化による人口減少の足音も聞こえ始めていた。

 そんな時期に彼は設計コンペにのめり込んでいく。切っ掛けは福島県住宅供給公社主催の設計コンペ。それは「急激に進む長寿社会の中で高齢者が家族とともに生きがいを持ち、ゆとりのある社会生活をおくることができる高齢化対応型戸建住宅を啓蒙、普及を図る」ことを目的とした住宅設計コンペだった。それは福島県内における住宅設計コンペのさきがけだったと思う。

 当時から彼は建築設計で何かを成したいと思っていたが、それが何かが分からず迷路をさまよっていた。もしかしたら、この迷路の道標になるかも知れないと思い、その設計コンペの参加を決めた。それは独立から2年が過ぎようとしていた時だった。 

 修行時代から彼は「明るく広がりのある空間」の建築設計を心がけていた。そのための手法として①アール (円)を取り入れた平面計画や、②階高に変化を持たせるスキップフロアや、③外部との一体感と家族のプライバシーを守れるコートハウス(中庭型住空間)などを駆使した。

 今回の高齢化対応型戸建住宅設計コンペのテーマから設計コンセプトを「生きがい空間のすすめ」とし、二世帯住宅の高齢者スペースに「寝室+αの部屋」を設けた計画とした。それはピアノや書道教室、碁や将棋の場、お茶や酒盛りの場や、アトリエやギャラリー、小さなお店などいろんな風に自由に使える空間とし、その高齢者コーナーと家族空間をアールの半屋外空間で結び、付かず離れずのほど良い距離感を持つ2世帯住宅とした。それは前年イタリア研修の衝撃の学び(建築道30参照)から和風外観とした。

 計画を進めている最中、突然に元職場の別支店設計者から電話があった。「本社設計部で計画したコンペ図面を書く事となり、どう書いたら良いかを教えて欲しい」との内容だった。本社設計部は自分の勤務した部署で、前職場と元同僚もライバルという事を知る。そして福島県の設計コンペであって他県の設計者とも競争になるという現実を認識した。彼は電話で課題図面の書き方をアドバイスした。

1991年福島県高齢化対応型住宅設計コンペ入選案

 それから2週間ほど後に、2晩ほど徹夜してコンペ作品を仕上げ郵送で提出した。彼は自分が納得いかない作品が設計コンペで選ばれるはずはなく、そんな作品を提出しても意味がないと思っている。そのため期限ぎりぎりまで粘り、直前はいつも徹夜となった。

 3月始めにコンペ結果が発表された。40作品応募で2位入選。福島県のコンペで結果を出したことは嬉しかったが、最優秀は前職場と元同僚の案だった。自分の設計コンペへの取り組む姿勢の甘さを痛感し眠れなくなる。そして「このままでは終われない」と思った。今にしてみれば、この屈辱が彼の建築家としての方向性の道標になった。そして「競争の厳しさ」を知らされた。それは前職場からの贈り物だったように思っている。