建築道(みち)18 ・・上司説得に寝る 

 転勤後に住んだ家をgooglマップで探す。そこは30年以上前に彼ら一家が1年間暮らし、近所の人にとても良くしてもらった場所。その団地や当時彼が通っていた理容室は直ぐに見つけられたが、住んだ家は一向に見つからない。30年以上経過し住居表示も変わり、周りは様変わりしている。もしかしたら建物はすでに取り壊したかもしれない。ツレに助けを求め、二人がかりで悪戦苦闘の末やっと発見した。そこはリフォームされ外壁色もツートンカラーに塗り替えられ、別な家のようになっていた。決め手は玄関ポーチのタイルと、その割れた部分がgooglストリートビューと家族写真が同じだったこと。探してる間、そこでの出来事が走馬灯のように頭の中を流れていく。ツレが「あなたはほとんどいなかったからね」などと言う。

 彼女が言うように、本社設計部での仕事は多忙で朝から夜中まで会社で過ごした。各支店のモデルハウスの企画設計・工事監理、特殊物件の設計、各支店設計課の管理、会社設立記念誌の編集などなどと彼はやり切れんばかりの仕事の山と対峙した。彼が目指す「家族の笑顔溢れる住まい造り」とは程遠い場所に来た思いがしていた。

 当時のモデルハウスは「いかに夢を抱いてもらえるか」を各社が競い合う。床面積も60~70坪と大きくゆとりのある計画とし、一般住宅の3倍の照明器具を設置し、豪華な内装・設備とし、3年周期くらいで最新設備を完備した新しい展示場を建て替える。お客さんは実際に建てる住宅の2~3倍の価格の展示場を見て夢を抱き住宅メーカーを決めることになる。彼はその不自然さが引っかかっていた。

 一方、転勤先の街は自然が豊かで美しく、食べ物も美味しく、周りの人は良くしてくれて、素晴らしい場所だった。休日ごとに家族4人で出かけた。アルバムを見ると、住んでいた短期間に福島から4家族が遊びに来て、一緒に牧場などでの写真なども残っている。

 秋の終わりツレが体調を崩し、3週間程の入院が必要になる。育児で無理をし過ぎたのかもしれない。姉妹はまだ2歳と5歳だ。彼の仕事も止められない。そこでツレは実家近くの病院に入院、姉妹はツレの実家に預けることになった。彼は初めての一人住まいとなり、週末はツレの実家に片道300kmの道を通った。家族が大変な時に一緒に居れないことが悔しく、家族に申し訳なく思った。いざという時に家族を守れない父親は失格だ。彼は会社を辞めることにした。

 「独立して設計事務所をしたい」とツレに相談すると「思うようにやってみれば」と言う。夫婦の両実家で話すと「わかりました」と言われ、姉もまた同じ。おいおいみんな真剣に考えてるの。設計事務所で独立するのはそんなに簡単じゃないんだよ、失敗したらどうするの・・と、彼は思った。

 「会社を辞めさせて頂きます」と上司に話すと彼の頬に涙が流れた。彼は我ながらその予期せぬことに戸惑った。「辞めてどうする」と聞かれ、彼は「建築家を目指します」と答える。後日飲みながら話すことになり、老舗のお洒落なバーで上司から説得を受けた。そのバーは特に照明が凝っていて、全体が暗い中でお酒だけに光があたり、その間接の明かりが人の顔を映すという具合だ。彼は上司と2人で飲むのは初めてでもあり、たて続けにグラスを飲み干す・・決して酒に強くはないのに。「建築家で生きるのは難しい」と言うようなことを上司は話す。しかし彼は酔ってしまい、その言葉が暗闇での子守唄のように心地よく聞こえた。そして彼は話を聞きながら寝てしまい、上司はお手上げ状態となった。居酒屋だったらそんなことにはならなかったと思う。その後、彼は7年間務め育ててもらった住宅メーカーを3月末に去ることになる。それは彼が30才、昭和最後の年だった。

サハラ砂漠