建築道(みち)29 ・・イタリーにランバダがこだまする

 彼が持って行った革製大型旅行鞄はショルダー型のスーツ・ジャケットも入れられる優れもの。英国製メーカー品で物も良く格好も良い。しかし重く大きく邪魔になる。その鞄は自分で持つという前提にない、重すぎる。彼の家では、それは「使えない」や「無駄」の象徴になった。一家はそれを形容詞に使う。例えば「それはまるで、あのでかいバックの様につかえない・・」と言うように。これまでその旅行バッグは5回しか使ったことがなく、その記念すべき1回目がこのイタリア研修旅行。その後3回は彼が使用し、長女が1回使用した。彼女が「重すぎて体を壊した」と話すほどそれは恐ろしいバッグだ。しかしそれを使うと時折「イギリスのメーカー品なんですね」とか「格好良いですね」とか「こんな大きなバックも出しているんですね」とか言われることがあり捨てられない。そんなバッグに初日購入の建築専門誌を潜ませイタリアを廻る修行の旅は続く。

 ミラノから水の都ヴェネツィアへ。海からの玄関口のサン・マルコ広場につく。そこは寺院、宮殿、大鐘楼や時計台が並び、美しいアーチ天井の回廊と喫茶店に囲まれる世界で最も美しい広場と言われている。市街地では車は通れず(通行禁止)、その代わりにゴンドラや水上バスが行き来する。路地と運河が重なり、所々に小さな広場がある。路地には様々な土産物店が並び、2階から上が住居で、屋上部にアルターナと呼ばれる物干し場風ベランダがある。彼はこのアルターナが気に入り、帰国後に何度か建築計画に取り込んだ。

 毎年地盤が沈むヴェネツィア、1階が使えない建物もあった。その滅びゆく街並みが一層心に沁みる。しかるにゴンドラの船頭や乗客がカンツォーネを歌い出すと周りは笑顔に満ちていた。「イタリア人はいつもこんなに食べるんだろうか?」と思う夕食の後、宿にチェックイン。部屋は水路に面する最上階(小屋裏)でドーマーから水上バスが見えた。その後、ステンドガラス輝く夜の街を散策、霧の中に鐘の音が聞こえ、そこは別世界だった。15年後、長女は大学ゼミで「ヴェネツィアの都市計画」を専攻、夏休み調査研究と称して7日間滞在、その後フランスへという大胆な旅をした。1日しか滞在できなかった彼が羨ましがったほどヴェネツィアの街は素晴らしかった。

1990年イタリア ヴェネツィア

 

 次の日、水上バスと観光バスを乗り継ぎ花の都フィレンツェへ。そこはカラヴァッジオダ・ヴィンチミケランジェロボッティチェッリレンブラントラファエロゴヤ等々・・と、巨匠名画が洪水のごとく押し寄せる芸術の街。あまりの衝撃でミケランジェロ広場からの市街地の素晴らしさ、ゴシック建築物として有名な巨大なドームの大聖堂とヴェッキオ橋くらいしか記憶にない。そして25年後、それらを補うように再び花の都へ行く。何度行っても素晴らしい、あーあー愛しきフィレンツェ

 イタリーは明るく陽気で華やか。夏開催予定のサッカーワールドカップでどこに行ってもサッカーの旗がたなびいていた。そしてどこの街角でもランバダの曲が流れていた。彼はホテルディスコで白人女性とランバダを踊り有頂天になる。日本では半年後に大流行するが、彼はそれを聞くたびに情熱の国イタリーを思い出した。

 ベルリンの壁崩壊から冷戦が終わりこれから平和な世界が訪れるとみんなが思った。イタリアでのワールドカップは西ドイツが優勝し10月にはドイツが再統一した。そしてその3年後にEU(欧州連合)が生まれる。その時のランバダは欧州全体の「喜びの歌」のようだった。

 ターラ ラララ ララララ らー・・・♪

 

※訂正

家族から文中の「革製大型旅行鞄は英国製でなく米国製」との指摘を受けました