建築道(みち)31 ・・設計コンペでの贈り物

 もう少しで21世紀を迎えようとしていた頃、この国ではバブル崩壊真っ只中にあり、都市銀行住宅ローン変動金利が1990年8.5%に上昇、その5年後には2.625%と急降下した。その間には、「ちびまる子ちゃん」のTV放送が開始され、宮沢りえ写真集が出版され、きんさんぎんさんが人気者となり、Jリーグが開幕して、非自民の細川政権が生まれ、阪神・淡路大震災発生、という怒涛の5年間だった。そして少子高齢化による人口減少の足音も聞こえ始めていた。

 そんな時期に彼は設計コンペにのめり込んでいく。切っ掛けは福島県住宅供給公社主催の設計コンペ。それは「急激に進む長寿社会の中で高齢者が家族とともに生きがいを持ち、ゆとりのある社会生活をおくることができる高齢化対応型戸建住宅を啓蒙、普及を図る」ことを目的とした住宅設計コンペだった。それは福島県内における住宅設計コンペのさきがけだったと思う。

 当時から彼は建築設計で何かを成したいと思っていたが、それが何かが分からず迷路をさまよっていた。もしかしたら、この迷路の道標になるかも知れないと思い、その設計コンペの参加を決めた。それは独立から2年が過ぎようとしていた時だった。 

 修行時代から彼は「明るく広がりのある空間」の建築設計を心がけていた。そのための手法として①アール (円)を取り入れた平面計画や、②階高に変化を持たせるスキップフロアや、③外部との一体感と家族のプライバシーを守れるコートハウス(中庭型住空間)などを駆使した。

 今回の高齢化対応型戸建住宅設計コンペのテーマから設計コンセプトを「生きがい空間のすすめ」とし、二世帯住宅の高齢者スペースに「寝室+αの部屋」を設けた計画とした。それはピアノや書道教室、碁や将棋の場、お茶や酒盛りの場や、アトリエやギャラリー、小さなお店などいろんな風に自由に使える空間とし、その高齢者コーナーと家族空間をアールの半屋外空間で結び、付かず離れずのほど良い距離感を持つ2世帯住宅とした。それは前年イタリア研修の衝撃の学び(建築道30参照)から和風外観とした。

 計画を進めている最中、突然に元職場の別支店設計者から電話があった。「本社設計部で計画したコンペ図面を書く事となり、どう書いたら良いかを教えて欲しい」との内容だった。本社設計部は自分の勤務した部署で、前職場と元同僚もライバルという事を知る。そして福島県の設計コンペであって他県の設計者とも競争になるという現実を認識した。彼は電話で課題図面の書き方をアドバイスした。

1991年福島県高齢化対応型住宅設計コンペ入選案

 それから2週間ほど後に、2晩ほど徹夜してコンペ作品を仕上げ郵送で提出した。彼は自分が納得いかない作品が設計コンペで選ばれるはずはなく、そんな作品を提出しても意味がないと思っている。そのため期限ぎりぎりまで粘り、直前はいつも徹夜となった。

 3月始めにコンペ結果が発表された。40作品応募で2位入選。福島県のコンペで結果を出したことは嬉しかったが、最優秀は前職場と元同僚の案だった。自分の設計コンペへの取り組む姿勢の甘さを痛感し眠れなくなる。そして「このままでは終われない」と思った。今にしてみれば、この屈辱が彼の建築家としての方向性の道標になった。そして「競争の厳しさ」を知らされた。それは前職場からの贈り物だったように思っている。

建築道(みち)30 ・・イタリーの衝撃

 その昔、都市国家が乱立していたイタリア、行く先々の街が違う顔で、特に小さな街は個性的表情が際立つ。彼は夢中でカメラのシャッターを切り続けた。

 バスは花の都フェレンツィから90km程のピサを廻り、シエナに向かう。

 ピサは大聖堂で揺れるシャンデリアを見て振り子の法則を発見し、斜塔で落下の法則の実験を行い、宗教裁判の際に「それでも地球は回る」と言い放ったガリレオ・ガリレイが生きた街。その大聖堂と斜塔を見学し、塔を支えるお決まりの写真を撮ると、突然カメラが動かなくなる。電池切れだ。当時はデジカメでなくフイルム式カメラだったが、彼はフイルム式カメラが電池切れになるという認識がなかった。カメラは1台しか持ってきてない。このピンチに彼は慌てた。まさかそこら中が絵になるような所でカメラの電池切れになるとは・・・。おまけにそれはボタン式電池だった。言葉が通じないところでボタン式電池を見つけ購入するなど至難の技。カメラとボタン電池を手に可能性のある店を片っ端から探し廻った。何軒かのところで発見!無事カメラが動き出した。彼は「グラツィエ、grazie、サンキュウ ベリーマッチ、ありがとう」と連呼した。それは砂漠で井戸を見つけた様な感覚だった。それ以来、旅には2台か3台のカメラを持って行くことにした。

 しかし喜びもつかの間、ピサの斜塔の公園に戻るもすでにツアー一行の人影がない。一行はすでに別の場所に移動していた。彼は電池切れ以上のパニックになり、慌てて周辺を探すが見当たらない。・・・少し冷静になると「到着した同じ場所から1時間半後にバスが出発する」という事を思いだす。彼はバス出発場所を確認して、ピサのドゥオモ広場や先程回った土産物屋をじっくり回り、ツアー一行を待った。ピサからシエナへのバス車中で「見かけなかったけど?」などと言われたが「ドゥオモ広場をじっくり見学」などと平静を装った。

 扇状に傾斜している勾配のカンポ広場が中心の街シエナ。17のコントラーダ と呼ばれる地区に分かれている。夏に2回パリオと呼ばれる祭があり、祭りメインの広場外周を廻るコントラーダ対抗の競馬が有名・・そんなシエナに冬に一泊。早朝に丘の丘陵地にサン・フランチェスコ聖堂のあるアッシジに向かう。アッシジは眼下の農耕地に靄がかかり幻想的風景を見せてくれた。その後一路ローマに向かう。「全ての道はローマに通ず」などと思いながら意識が薄れ車中爆睡となる。

 気が付けばあのオドリー・ヘップバーン休日の都市ローマ。オードリーと同じ場所を巡る。スペイン階段付近で怪しげな人影が彼ら一行の後に付いてくる。ガイドが「スリがいるので気を付けて」と言う。彼はリュックを確認、怪しげ人等をにらむ。やがて彼らの警戒に諦めたのかいなくなった。一行は「バルカッチャの噴水」で後ろ向きにコインを投げ、再びここに来ることを祈った。しかしオードリーの様にジェラートを食べることはしなかった。カトリック教徒の総本山バチカンサン・ピエトロ大聖堂には度肝を抜かれた。彼は信者ではなかったが、内部に入ると壮大で厳かな雰囲気が「神の存在」を思わせた。彼は京都・西本願寺でも同じような感覚になったことを思い出した。

 始めての欧州、イタリアはどこに行っても素晴らしかった。BC6世紀から続く繁栄の歴史に圧倒され続けた。欧州に留学した建築家は帰国すると和風建築を作るようになると言うが、合点がいく。この環境の中で生まれ育った建築家と欧州建築デザインを競っても勝てるはずがない。自分の生まれ育った文化を基礎とする建築の追求無くしては勝負にならない。西洋かぶれは本物にはなれないと悟った。彼にとっての今回の旅は、今までのデザイン手法を見直さなければならないほどの衝撃だった。

1990イタリア ローマ コロセウム

 余談だが、

 イタリア研修旅行の40日ほど前、彼は劉邦M氏〈建築道16参照〉と酔った勢いで「1か月で10kg体重を落とせるか」の賭けをした。その時の彼は結婚後8年間で15kg太り、運動不足も甚だしかった。一方、M氏は痩せていて1か月で10kgも体重を下がるなどイメージできなかったと思う。しかも年末年始の普段なら増える時期に。それから1か月、彼は朝食以外を蕎麦食とし、朝にジョギング、夕方には直前に入会したスポーツクラブでジム・水泳・サウナを毎日こなした。そして研修旅行3日前に1か月10kg減量を達成!し、ただ酒をゲットした。しかし急激に痩せたことからズボンがぶかぶかとなるなど、ファッショナブルなイタリアでの服に困ることになる。さらに急速減量による腰の違和感も抱えての旅立ちとなった、重い鞄を持って。心身ともにハードな「イタリーの旅」だった。しかし帰国時には3kg太ったことはM氏には伝えず土産を渡した。半年後には元の体重に戻ってしまったのだが・・・。

 

建築道(みち)29 ・・イタリーにランバダがこだまする

 彼が持って行った革製大型旅行鞄はショルダー型のスーツ・ジャケットも入れられる優れもの。英国製メーカー品で物も良く格好も良い。しかし重く大きく邪魔になる。その鞄は自分で持つという前提にない、重すぎる。彼の家では、それは「使えない」や「無駄」の象徴になった。一家はそれを形容詞に使う。例えば「それはまるで、あのでかいバックの様につかえない・・」と言うように。これまでその旅行バッグは5回しか使ったことがなく、その記念すべき1回目がこのイタリア研修旅行。その後3回は彼が使用し、長女が1回使用した。彼女が「重すぎて体を壊した」と話すほどそれは恐ろしいバッグだ。しかしそれを使うと時折「イギリスのメーカー品なんですね」とか「格好良いですね」とか「こんな大きなバックも出しているんですね」とか言われることがあり捨てられない。そんなバッグに初日購入の建築専門誌を潜ませイタリアを廻る修行の旅は続く。

 ミラノから水の都ヴェネツィアへ。海からの玄関口のサン・マルコ広場につく。そこは寺院、宮殿、大鐘楼や時計台が並び、美しいアーチ天井の回廊と喫茶店に囲まれる世界で最も美しい広場と言われている。市街地では車は通れず(通行禁止)、その代わりにゴンドラや水上バスが行き来する。路地と運河が重なり、所々に小さな広場がある。路地には様々な土産物店が並び、2階から上が住居で、屋上部にアルターナと呼ばれる物干し場風ベランダがある。彼はこのアルターナが気に入り、帰国後に何度か建築計画に取り込んだ。

 毎年地盤が沈むヴェネツィア、1階が使えない建物もあった。その滅びゆく街並みが一層心に沁みる。しかるにゴンドラの船頭や乗客がカンツォーネを歌い出すと周りは笑顔に満ちていた。「イタリア人はいつもこんなに食べるんだろうか?」と思う夕食の後、宿にチェックイン。部屋は水路に面する最上階(小屋裏)でドーマーから水上バスが見えた。その後、ステンドガラス輝く夜の街を散策、霧の中に鐘の音が聞こえ、そこは別世界だった。15年後、長女は大学ゼミで「ヴェネツィアの都市計画」を専攻、夏休み調査研究と称して7日間滞在、その後フランスへという大胆な旅をした。1日しか滞在できなかった彼が羨ましがったほどヴェネツィアの街は素晴らしかった。

1990年イタリア ヴェネツィア

 

 次の日、水上バスと観光バスを乗り継ぎ花の都フィレンツェへ。そこはカラヴァッジオダ・ヴィンチミケランジェロボッティチェッリレンブラントラファエロゴヤ等々・・と、巨匠名画が洪水のごとく押し寄せる芸術の街。あまりの衝撃でミケランジェロ広場からの市街地の素晴らしさ、ゴシック建築物として有名な巨大なドームの大聖堂とヴェッキオ橋くらいしか記憶にない。そして25年後、それらを補うように再び花の都へ行く。何度行っても素晴らしい、あーあー愛しきフィレンツェ

 イタリーは明るく陽気で華やか。夏開催予定のサッカーワールドカップでどこに行ってもサッカーの旗がたなびいていた。そしてどこの街角でもランバダの曲が流れていた。彼はホテルディスコで白人女性とランバダを踊り有頂天になる。日本では半年後に大流行するが、彼はそれを聞くたびに情熱の国イタリーを思い出した。

 ベルリンの壁崩壊から冷戦が終わりこれから平和な世界が訪れるとみんなが思った。イタリアでのワールドカップは西ドイツが優勝し10月にはドイツが再統一した。そしてその3年後にEU(欧州連合)が生まれる。その時のランバダは欧州全体の「喜びの歌」のようだった。

 ターラ ラララ ララララ らー・・・♪

 

※訂正

家族から文中の「革製大型旅行鞄は英国製でなく米国製」との指摘を受けました

 

 

建築道(みち)28 ・・ベルリンの壁崩壊80日後のイタリーへ

 日本のバブル崩壊寸前1989年11月、欧州では突然に東西ドイツを遮断していたベルリンの壁が崩壊した。それは第2世界大戦後の東西冷戦の象徴。それにより欧州を分断していた鉄のカーテンがほころび、その後一気に消え去ることになる。壁崩壊直後に彼は前職場の友人からイタリア研修ツアーの誘いを受けた。それは建築設計者とインテリアデザイナーが対象の研修ツアーで、ミラノからローマの建築を巡る8日間の旅だった。それまで欧州に行く機会が一度もなかった彼は「少し無理をしてでも今の欧州を見るべきだ」と思った。くしくもツアー日程の1月終わりから2月にかけては福島での建築オフシーズンでもあり、迷わず申し込む。しかし独立1年目でまだ生業も定まらぬ時期。ツレは良い顔はしなかった。しかし「今の欧州を見たい!」「これは建築デザインのため」「事務所の未来のため」との大義を掲げ、粘り倒し何とか説得に成功した。直前に所有株を売却したタイミングも功をそうした。こうしてドイツのベルリンの壁崩壊直後に友人2人と30名くらいのツアーで欧州イタリーに飛び立つことが決まった。彼にとって新婚旅行、社内旅行に続き3度目の海外となる。

 現在の欧州への航空路はロシア上空を迂回しているように、当時もソ連上空を飛ぶことは出来ず、成田からアンカレッジ、ロンドン経由でミラノに向かった。途中、経由地の極寒アンカレッジではブロンド美女の売店でワインを味わい、トランジットのロンドンでは彼の英語がまったく通じずショックを受けた。そしてベルリンの壁崩壊80日後のイタリーに降り立った。そこではイタリア人は彼の英語を真剣に聞いてくれ、到着したミラノでは片言英語が通じ彼は一層上機嫌になった。

イタリア ミラノ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガッレリア

 夕方ホテルに着き、近くの有名アーケード(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガッレリア)を一人歩き。そこは何もかもが美しく洗練されて見えた。そこで小さな本屋に立ち寄る。内部はイタリア語の本が並んでいたが、彼は一角の盆栽本コーナーを見つけ釘付けになる。日本ではあまり見かけない、いや、あるのだが目に入らないのだろう。その時の彼は、ガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われたアーケードと石造り建築の見事な壮大なハーモニーに押しつぶされそうになっていた。そんな中での盆栽コーナーは彼にとっては砂漠の中のオアシス、忘れかけた日本人のプライドを取り戻した気がした。盆栽コーナーの本がひときわ輝いて見えた。さらに気分が上がり彼はイタリア語建築雑誌等を数冊購入し本屋を後にした。そしてその数冊の建築関係本を持ちイタリアを1週間廻ることになり、本の購入はイタリアを離れる直前にすれば良かったと後悔することになる。彼はスーツケースでなく革製大型旅行バックだったので、それ自体が十分重かったのである。 

イタリア ミラノ~ベネチア 右が筆者

 

建築道(みち)27 ・・飲み会

独立2年目。

 転勤、退社、独立で幼稚園を3回入園した長女も春から小学生!になる。今後の引っ越しの可能性を考えて、市内全域が学区の小学校に入学した。親はもう転校はさせたくなくなかった・・というのも一家は自宅建築を目指していたのだ。しかし独立直後は仕事も安定せず住宅ローン設定がしづらく、敷地のあてもなかった。長女は1年生から市内バスを乗り継ぎ市役所近くの学校に通った。彼女は友達も多く社交的だ。次女は春から幼稚園児!になる。姉の通ったカトリック系幼稚園年少のバラ組さんだ。近くの美味しいパン屋さんまで来るスクールバスで登園した。彼女は活動的。ある日、夫婦で参観日に行くと教室に次女がいない。先生に聞くと「今は隣の教室にいます」と言われ、親は慌てて年中さん教室へ探しに行ったことがあった。次女は自由奔放に幼稚園生活をエンジョイしていた。

 それまで専業主婦で一家を担っているツレは事務所の経理も担うことになる。彼女は長女出産までOLをしていた。その性格もあり小さな事務所の「厳しい経理担当」となった。経済観念が乏しく、江戸っ子気質を美徳とする彼とは違う。さらに彼女は短大の家政科出身で、建築デザインの教科も受講し建築とまったく無縁ではなかった。何より建築が好きだ・・・もしかすると彼より好きかもしれない。子供達の手も離れ始め、ほどなく経理の他に設計もやるようになる。そして建築を猛勉強、建築士の資格も取ることになる。彼女は建築の学校に行かず、独学で「主婦の立場から住まいを考える」建築設計を進める。その姿勢に既定路線で建築を進んできた彼は驚き尊敬もしている。もちろんツレは家事もこなしている。今では市の都市計画審議委員も務める。マンションはどうしても手狭なため、設立2年目後半に事務所を市役所近くに移した。設計事務所は何かと役所に行くことが多く、娘達の小学校・幼稚園に近かったことからだ。

 恐らく彼の人生を変えたであろうJC(青年会議所)入会もこの年、彼が32才の時だ。卒業の40才まで9年間は街づくり委員会を中心に活動し、理事、役員と貴重な経験が出来た。OBとなってからも昔の仲間とのつながりがある。当時の福島JCは会員が120名ほどで飲み会が多かった。役職のない一般会員は月1回の例会と委員会があり、会合の後は2次会となる。自動的に月に2回飲み会がセットされる。しかしそれはイベント等がない場合である。イベントがあるとその打合せで飲み会、イベント打ち上げで飲み会、同期会で飲み会、前年委員会の飲み会、県ブロックなどに出向するとその会合の後に飲み会、理事になると理事会で飲み会・・・という具合で活動すればするほど雪だるま式に飲み会が増えていく。時はバブル崩壊前夜。彼は入会当時にこの生活を何年続けられるだろう・・と思ったほどだ。(噂によると、今のJCはそんなに飲み会はやらないらしい)しかし嫌いな方でもなかったので、彼はほどなく順応した。JCの飲み会は平均すると週1.5回くらいの飲み会だったろう。これはJCばかりでないが当時福島では温泉旅館で忘年会、新年会、花見等をすることも良くあった。福島市内には温泉街が3か所あり、JCメンバーやOBにも温泉旅館経営者がいた。因みにJCばかりが飲み会がある訳でではない。建築士会も、現場でも、友人とも飲み会がある。彼は忘・新年会の時期は週4回くらいの飲み会をこなし、設計事務所運営は肝臓を鍛えなくてならないと思った。

スペイン サグラダファミリア

 

建築道(みち)26 ・・講習会質問騒動

 自宅マンションの一角で設計事務所を開業、一級建築士事務所登録は4月後半だった。それまで会社で何十人に会っていたのが突然、家族だけとなり「社会から忘れられてしまうのでは?」と疎外感を感じた。そんなこともあり、始めのうちはネクタイ姿で仕事をしていた。また運動不足とストレス解消のためジョギングを始め、後に歩いて3分のスポーツクラブでのジム・水泳・サウナに通った。

 彼の1日は起床後にジョギング、リビングダインイングで家族と朝食をとり、8:30に玄関近くの事務所に出勤、掃除後に仕事を始める。その後長女は「行って来ます!」と幼稚園に出掛ける。スクールバス見送り後に次女はお母さんと過ごす。そして時々事務所に顔を出し、作業机でお絵描きをしたりした。その絵を見ながら彼はドラフターで図面を書いた。昼食は次女とツレと3人で。その後次女はお昼寝に入り、ツレと業務打ち合わせ。そして長女が「ただいま!」と帰って来る。時折姉妹二人で事務所に遊びに来た。後に姉妹もスポーツクラブの水泳に通いだす。夕食終了後に彼は20:00に再び事務所へ行きドラフターに向かう。その後22時になったり24時になったり、時には朝方になる事もあった。デザインの仕事は凝り出すとキリがなく、30代には良く徹夜をした。

 これらは日中に外出しないバージョンのルーティーンワークで、もちろん打ち合わせや現場に行くこともある。携帯電話もメール・インターネットのない時期で、会って意思疎通が大事で来客者も少なくはなかった。挨拶状の効果か、もの珍しさからかスタート時は思ったより設計依頼があり内心ホッとした。しかし半年過ぎた頃、思った以上に経費が掛かり当初想定最低売り上げの3倍は必要という事に気付き、経費は抑え売り上げを増やさねばならぬことを悟る。

 そのためにも外に積極的に出掛け、もっと自分を磨き、自分の建築を知って貰わなければならなかった。そこで彼は建築士会とJC(青年会議所)に入会することにした。独立までハウスメーカーという狭い中での「お客様の気に入って貰える設計」を求め仕事をしてきたが、独立した建築家はそれだけでは不十分。「建築のチカラで何ができるか?」を探しに大海原に飛び出さなければならない。くしくもその年は6月に「天安門事件」、11月に「ベルリンの壁崩壊」があり、人々が自由を求めるうねりが巻き起こっていた。それらは彼の独立と全く無関係ではなかったろう。彼の自由への戦いが始まる。

 建築士会は施工に携わる建築士、同じ設計者でも目指す方向を異にする建築士、構造設計者、設備設計者諸兄と交流により建築に対する情報的や知識に幅が出来た。彼は地元育ちでも地元企業出身でもなかったが、大学の先輩が何人かいたことや、同世代が多かったこともあり温かく迎えられた。その中でいろいろなことを学んだ。

 入会当初に講習会質問騒動があった。士会では毎年市建築指導課や消防所予防課の方々を招き毎年新年会と共に「建築・消防行政に関する講習会」を実施している。1か月ほど前に講習会にむけ「行政への質問募集」の連絡があった。彼は勤めていた時、商品開発のため良く福島市の建築指導課でいろいろ相談に行ったが、今まで聞けなかったことを質問した。「どのような街を目指して建築の指導をされているのですか?」と質問用紙に記入しFAXした。後から考えると恥ずかしいような質問だ。見方によれば喧嘩を売っているようにも思える。しかしそうではなく、彼は社会の構築システムを知らなかったのだ。そうしたところ「これはどういう意味?」という質問電話が別々に先輩会員3人からあった。彼はその件がその後どうなったかの記憶がなく、今でもその質問騒動を思い出すと当時の「青さ」具合に冷や汗が出る。

スペイン セテニル・デ・ラス・ボデガス

 

建築道(みち)25 ・・「地盤」「看板」「鞄」

 俗に三バンと呼ばれる「地盤」「看板」「鞄」は政治家に必要とされる3要素だが、地方での建築家の独立も同じようなものが必要と言えよう。それはクライアントに選ばれないと仕事に繋がらないからだ。3要素の「地盤」は支持地域、「看板」は知名度、「鞄」は資金である。しかし彼はそのどれも不足していた。前に言った様に彼は生まれも育ちも別の地域、近隣ではあるが「地盤」という点では不安があった。しかし前会社での7年間により彼を応援する人が現われた。それは決して固い地盤とまでは言えなかったが、彼に「良い仕事が次の仕事を生む」という希望を与えるには十分だった。その後に彼は「福島市を選んだ男」と自己紹介した。

 次の要素「看板」もない。それまでの彼にあるのは一級建築士宅建合格、東北電力建築作品コンテスト入賞くらい。俗に「小石を投げると一級建築士にあたる」や、「建築士の資格は足の裏の米粒。取らないと気になるが、取っても食えない」などと言う。数ある一級建築士の中で設計者として選ばれる実力を付けなければならないと思った。「そのために何をすべきか」が彼の課題で、それは今でも続いている。その一つとして独立2年目に国土交通省のインテリアプランナーの資格を取得した。そして2年後には「インテリア高校教員免許」の取得を目指した。これらは前会社在職中、東京で2年間インテリアについて研修・研究の影響がある。中でも「インテリア高校教員免許」は当時、県内でその免許を持っている人はいなかった。その理由として福島県内の高校にはインテリア科がなかった事、さらに建築の高校教員免許があればインテリア科を教えることが出来た事からだ。しかし誰もいない、ただ1人と言うのがなんとも気持ちが良い。インテリア教員免許試験は一次試験を仙台で受験しパスした。そして二次試験が東京で行われた。東京試験会場では筆記試験の他、面接試験もあった。その面接時に試験管から「福島県ではインテリア科がないが、何故取得するのか?」の質問があったが、彼は「将来のため」と答えた。インテリア教員免許を設計者として選ばれるための資格武装とも考え、設計者としての「看板」を補おうとした。これまで2つの資格を直接的に使う事はなかったが、文部省から直接郵送された「インテリア高等学校教員資格認定試験合格証」と、県教育委員会からの「インテリアの高等学校一種免許状」を彼は今でも大切に保管している。 

 もちろん「鞄」もない。彼は江戸っ子気質で貯金はそれほどなく、退職金も雀の涙、独立資金は少しばかり保有していた株だった。それは日経平均株価が最高値を記録したバブル崩壊寸前の1989年。独立当初春に所有株の2/5を売却した。夏になるとその株が突然上がり出した。残りの株が春に売却時の2倍3倍4倍・・・となる。株の急上昇は仕事どころではなくなり、堪え切れず8倍になったところで売却した。ところが値上がりはまだ続いた。その後も9倍10倍と上昇する。彼は買い戻そうかとも思ったが「ローンを組んでまでしては」とすんでのところで思い止まり、断念した。結局その株は春の売却時より最高で15倍まで上がる。彼が購入時と比較すると充分値上がりして、それはそれで良しとすべきだった。しかし最高値15倍を見てしまった彼は「なんか損した」気分になる。そこであろうことか別の株をいくつか購入した。しかし時代はバブル崩壊期、次の年から20年以上日経平均株価は下がり続け、ついには最高値の1/5にまでなった。結果、バブル崩壊は子供たちのピアノと2・3度しか使ってない重すぎるブランド旅行鞄だけを残す。ローンを組むまでにならなかったのが救いだ。バブル崩壊は彼に「地道が一番、あぶく銭はなくなる」という教訓を与える事になる。

 

 陽は昇り 陽は沈み 陽は昇り 陽は沈み 日々は流れ過ぎる  

 Sunrise ,sunset. Sunrise, sunset. Swiftly flow the days.

中国 敦煌