建築道(みち)57・・手書き図面との別れ

 その頃、建築設計を志して20年が過ぎていた。大学で建築を学び、卒業後に大学の副手として設計を教え、その後プロの設計者として社会の荒波にもまれ、独立開業しバブル崩壊の嵐の中に飛び込む。

 そもそも設計者として出だしの大学での最初の設計課題「レタリング」評価で「君は現場に行った方が良い」と言われたことから始まる、決して建築家への道程は平たんではなく、険しい道だった。設計者にとって文字の汚さは致命的だ。思えば・・如何にしてそれをカバーするか暗中模索の日々だった。その結果、納得のいかないものは書き直し、クライアントには絶対なる自信の設計図提出を心がける。少しでもためらいのあるものは外には出さない。その繰り返しの20年で図面に設計者の意気込みや人間性を盛り込むことを目指した。

 それは独立10年、「もしかしたら行けるかも・・」と思い始めた頃にCAD化の波が押し寄せて来た。(CADキャド・コンピュータを使い設計や製図を行うこと)

 当時は長年の作図作業で右手中指に大きなペンダコがあった。それは設計図面と戦う設計者の誇りであり勲章だった。しかしCAD化により製図用ホルダーなどは使わなくなり、マウスで図面を書くようになる。そしてPCとの戦いを20年もすると、すっかり右手中指の勲章はなくなった。図面は誰が書いても同じく機械的なものになったが、今度はその中に如何にして個性を盛り込むかの新しい戦いが始まり、今度は右手親指の腱鞘炎に悩まされることになる。

 1998年暮れからPCを使い始めたが、事務所をCAD化したのはその2年半後。ハードのシステムは整っていたがしばらくは手書図面を離せずにいた。しかしその間、建築業界はCADが急速に浸透し、CAD化直前には手書図面だと変人扱い。「さすが手書き図面に拘っているんですね~」などと皮肉交じりで言われた。

 CAD化への足踏みには理由があった。すでにホームページを作り上げPC導入の成果を出していたし、学生時代からの図面を描きながら指で考える設計手法だった。さらに、その時期はいろいろな問題が洪水の様に押し寄せ、新しい事に取り組む心の余裕がなかった。そして手書にはハンデキャップを乗り越えてきたという愛着もある。しかし回りがCAD化している中、ただ一人手書きでいるのは難しい。構造・設備・施工図を一から書かなくてはならず現場に負担がかかることになってきた・・。そしてCAD化に踏ん切りがつけた最後の一矢は、CAD化により図面に画像・写真が容易に貼れることだった。手書きでは到底真似ができない。全面降伏して手書図面のキャリアを捨てCAD化に舵を切る。それは2001年春、秋に「米国同時多発テロ」が起き世界が一変した年だ。

 その時、二人のCAD師匠がいた。一足先にCAD化した同業後輩のTくんとHくんだ。二人の師匠と説明本を頼りに1週間仕事を止めCAD化に挑んだ。それまで2年以上PCを使っていたのでそれほど難しくないと思っていたが、いざ始めると根本的なことが分からず仕事中のHくん事務所に押し掛けたり、夜中にTくんにSOS電話を掛けたりして悪戦苦闘、それでも何とかマスターすることが出来た。二人にはとてもお世話になり、この場を借りて改めてお礼を言いたい。

「迷惑かけて、ありがとう!」

サハラ砂漠オアシスの畑

 

建築道(みち)56・・設計コンペ天敵からの学び

・・・前回からの続き・・・

いわき設計コンペで天敵と呼べる設計者が現われた。一方的に天敵と思っているのだが・・。その人は同年代?の女性・・・いや、前に同年代だと思っていた女性が実は14も年下だったことがあり、あまりあてにならないが・・・彼女は主婦で、旦那が東北大の講師をしている。彼女のチームは彼女の考えた案を東北大講師が図面化する・・という特別な手法でコンペに挑んでいた。

このコンペでももちろんだが、一般的な設計コンペは延べ面積の制限(上限下限)がある。建築士の製図の試験も「床面積150㎡から180㎡」と言うように床面積の縛りがある。普段の設計においても建築費や部屋数などから面積の縛りがあり、それを無視しての設計はタブーと感じていた。設計者はいつも面積の縛りを受けているのである。

しかし彼女は違う。なにせ普段は設計の仕事をしていない。彼女は言う「150㎡は大きすぎるので、2部屋少なくして120㎡にしました。本当に必要になったら増築しましょう」と。そう、彼女の案はいつも常識破り。プロの設計者はそんな発想はしない、いや出来ない・・。まさに「目からウロコ!」状態、「どう判断したら良いか」分からなくなる。これは審査員もそうだろう。建築士試験であったなら落ちる。しかし「そんな考え方もある。意外と真をついているのかも・・」と思わせる何かを持っているのである。

彼女も大賞には届かなかったが、同じ入選でも彼女が格上だった。彼女との設計コンペ対戦成績は1分3敗。同じ時期開催の「群馬の家」設計コンペで、やっと同格入選になり1分けとなり、ついぞ1勝もできなかった。その設計コンペの天敵から「通常業務で身に着けてしまった、あたり前を疑え」という教訓を学ぶ。僕らは知らない間に当たり前という色眼鏡で物事を見てはいないか。大学時代、サークル先輩が言った「常識を疑え」という言葉を思い出した。

サハラ砂漠

サハラ砂漠2

 

建築道(みち)55・・「いわきの家」設計コンペ

20世紀末に「いわきの家」設計コンペが行われていた。それはいわき市内で住宅建築を計画しているオーナーを公募し、その敷地条件と、住宅に対するオーナーの意見・希望・夢をまとめた設計案を募集するものだった。いわき市・地域振興整備公団常磐支部・いわきまちづくり推進委員会(市内各建築団体が中心)が主催で、たしか7回(7年)行われたはずだ。いわき市の様々な建主と敷地から「いわきの家」とは何かを問う試みはとても興味深かい。建主にとっては志ある建築家が真剣に考えた200以上の計画を目にし、そこから住まい建築を始めれる。設計者にとっては1等(大賞)になると作品が実際に建築されるところが大きな魅力だった。

夏にオーナーを募集し、12月からコンペ参加者応募登録、そして敷地見学会と公開ヒヤリングが行われ、オーナーの希望や住宅への思いを直接聞く機会が設けられた。作品提出は2月、直後に一次審査が行われ1/5程度の作品に絞られ、3月始めに一次審査通過作品による公開審査会が行われた。その場で一次審査通過者・団体は3分間の設計説明を行う。(初参加時は一次通過50作品で150分の時間を要した)。その後に審査員8人とオーナーが応募設計者を前に審査し、大賞他を決める・・という流れで、とても丁寧な運営の設計コンペという印象を持った。

初参加時は応募登録者443、作品提出262で全国からの応募だった。その内で福島県内からは13作品で全体の5%程度、地方開催設計コンペだが全国大会の様相を帯びファイトが沸いた。参加設計者には著名建築家や、東京大学や東北大等講師や研究室での参加もあり、ライバルに不足はないどころか、ハイレベルの設計コンペだった。しかし必ずしも審査員とは意見や好みの一致を見いだすことは出来ず、3回参加して3回入賞で大賞には手が届かなかった。そんな中、入賞で終わったコンペのオーナーから「我ら夫婦は野武士建築家案の家が良いなーと思いました」との内容の手紙を受け取り苦労が報われた感じがし、その手紙は宝物になった。

設計者の立場から言えば、同じ施主・敷地条件で検討した他の建築家が導き出した261通りの答えを目に出来、「こんな考え方もあるのか」などとても興味深い経験となる。さらに3回も参加するとその間に親しくなった方や、その後建築家協会等で再会したり、別な設計コンペで出会ったりし、他の建築家との繋がりも生まれた。

・・・以下次回に続く・・・

ゴビ砂漠

 

建築道(みち)54・・臨時PTA集会の衝撃

 会長職を引き受け半年はこれと言って問題はなく、いたって穏やかな日々が続いた。あえて言えば現PTA会長が中心で作った「設立50周年記念誌」に誤字が多く、訂正シールがベタベタ張られたことが噂になったくらいだろう。

 ところが初冬になると学校中を揺るがす問題が生じ、それまで経験のない全学年臨時PTA集会を開催し、話し合いをすることにした。

 彼は臨時PTA集会の演台前で集まった父母の人数に驚いた。普段は全学年のPTAが集まる機会は年1度春のPTA総会だけだが、総会はいつも保護者の半分ほどしか参加しない。しかしその時は違っていた。関心の高さと土曜日夕方開催から父母2人参加も多く、総会の3倍ほどの人数となり用意した椅子では足りず立っての参加者もいた。やはり子供を心配する親の気持ちは強い。

 臨時PTA集会は一回では済まず、その後1か月の間に2回、たて続けに3回行った。1回目は状況説明と対策、2回目は対策継続説明、3回目は全員による解決実施策協力依頼とした。そしてPTA全体で対処し無事解決できた。その1か月間は毎日のように学校に通い、3日に1度は役員会で対策を協議した。そして彼らは「父母はどうあるべきか」を確認し合うことで、その案件を乗り越えることが出来た。改めて「基本が重要」なことを学ぶ。

 ところが次の年もまったく別問題が浮上、2年連続で臨時PTA集会を開催することになった。その時は1回で済んだのだが・・・。  

 ・・・いろいろあり次女卒業式頃にはくたくただったが、満足行く会長挨拶をと・・・あいさつ文を1週間練った。

 卒業式が終わり、同級生お母さんから「印象に残る会長さんでした」と言われ、「やっと肩の荷が降りた」気分となり、その解放感から次女同級生と記念写真を撮ったりしたら…家に帰り次女から大目玉を喰らった。次女は父の名前があだ名となるなど、父のPTA会長は大迷惑だったからだ。

 長女入学から次女卒業まで中学校で6年間PTA役員を引き受けた。さらにその後に評議委員会なるものができ、さらに2年携わることになる。娘たちは3年で卒業したが、父は8年間も中学校に通う事になったのだ。

 

インド デリー

 

建築道(みち)53・・思わざる修行

 まったく浮世はどこで何が起きるか分からない。彼は中学校PTAと言うクモの糸に絡めとられ、逃げるに逃れぬ状態に陥り、役員4年目に会長を引き受けざる得なくなってしまった。しかも状況はさらに深刻。PTA会長はここ数年、1年ごとにバトンをつないできたのだが、現役員の子供の学年や役員経験年数からすると、会長職は1年ではすまず2年務めることになることが濃厚だったからだ。まさか卒業した子供の親をPTA会長にするわけにもいかない。「誰か会長に立候補してくれれば一番良いのだが・・・」。そもそもこれは次年度会長予定だった現副会長が「会社の都合で会長を引き受けられない」ことになり、突然に役員循環の歯車が狂ってしまったからだった。

 一般役員と比べるとPTA会長の負担は3倍にも4倍にも膨れ上がる。当然行事出席も増え、特に厄介なのはその時の会長挨拶で事前準備が必要になる。「自分は寡黙な建築家」。PTAバレー大会・ソフトボール大会の壮行会でいったい何を話せば良いか分からない。しかし「子供たちをバックアップするPTA体制の維持は重要。立候補者がいない場合は腹をくくるしかない」と覚悟を決める。そこで1つ年下だがJC先輩で理事長を務め街の有力者D氏に事情を説明、「PTA本部役員、そして自分後の会長をお願いしたい」と拝み倒した。そして多忙のD氏に何とか引き受けて貰った。自分達の子供たちが通う中学校の一大事に立ち上がってくれた。役員就任2年目で会長が務まる人はD氏しかいない、おまけに挨拶の達人でもある。そして彼がPTA会長、D氏が副会長となった。

 彼は入学式と卒業式会長挨拶が重要と考えていた。PTA担当先生が新米会長に卒業式と入学式挨拶の雛形を用意してくれた。しかし彼は「子供達には一生に一度の門出、その門出にコピーを話すなどトンデモナイ!へたくそでもオリジナルで勝負したい!俺は痩せても枯れても建築家だ・・・」などと思ってしまった。そして彼は3分程の入学・卒業式挨拶にそれぞれ1週間ほど掛け、まるで設計コンペ並みの精力を傾け作り上げ、それを書道8段のツレに清書してもらい万全の準備で臨んだ。当然喝采を浴びるわけもないが、彼はそれが生徒の門出の贈り物と考えていた。

 会長になりしばらくすると次女からクレームが出た。「男子からお父さんの名前で呼ばれる」・・・これはキツイなー。しかしどうしようもないので、次女には修行と思い堪えてもらうことにした。娘たちは大迷惑だったに違いない。今でも忘れた頃に次女からその話がでる。彼は彼女達に「よくぞプレシャーに負けることなく耐え忍び真直ぐに成長してくれた」と思っている。

 そして秋、この季節になると毎年、お母さん達の市内PTAバレーボール大会とお父さん達の市内PTAソフトボール大会が別々の日にある。その年、彼の所属PTAでは父母ともに練習に気合が入っていた。会長はその練習に差し入れに行き、大会当日も当然応援に行った。まずはお母さんのバレーボール。応援PTAの皆さんも一段と熱が入っている。前年までは早い時間に敗戦となり午前中で終わっていたが、その年は違った。午後の試合まで進み、さらには決勝でも勝利してしまった。応援席は歓喜に包まれた。まさに東京オリンピック東洋の魔女」再来の様な活躍だったのだ。さらに1週間後、今度は父さん達のソフトボール大会。応援にトランペットが響き渡る熱の入りようだ。他校から何か言われるのではと会長は少しひやひやした・・・。こちらもあれよあれよと優勝決定戦に進み、後のワールド・ベースボール・クラシックなみの活躍の末に優勝してしまった。後に「父母アベック優勝はそれまで聞いたことが無い」と何人かの他校PTA会長に言われ、「たまたまですよ」などと答えたが内心誇らしかった。

 その頃は、その後しばらくして大変なことが起きるとは予想だにしなかった。

インド バラナシ

 

建築道(みち)52・・『桃源の誓い』のJIA

 もう一つ約束の団体があった。二人の地元建築家と交わした約束だ。2年前にF氏とT氏が彼の事務所に突然訪れ、JIA(日本建築家協会)入会の誘いを受けた。F氏は数年前の設計コンペで1等となり、その作品を見て「やられた!」と感心した時から「2度目まして」だった。その時からF氏は彼にとって一目置く存在になっていた。一方T氏とは初対面だったが、著名建築家に詳しく、建築への情熱を取り混ぜJIAについて熱心に説明してくれた。2人とも7・8歳年上だが話し始めると直ぐに意気投合し、彼は水を得た魚的な心地良さを感じた。それまで彼の周りに真剣に建築を語りあう友が無かったこともあろう。それは『三顧の礼』ではなかったが『桃源の誓い』的気分となり、二人に「共にやりましょう!」となってしまった。しかし当時JIA会費は年12万円とそこそこの金額で(後に半額となる)、「JC卒業後に入会させて頂きたい」と話した。彼は密かに「人生をかけて建築設計で何かを成しえたい」と考えており、JIAはその鍛錬のために欠くことは出来ないと感じた。そして『桃源の誓い』の時は来た。 

 約束通り40歳で入会すると、同志でありライバルである多くの友人建築家が出来、それは県内に止まらなかった。さらに大会に出ればそれまで雑誌で接することしか無かった著名建築家と話をし、建築を肴に酒を交わす機会を得た。JIAは彼の40代を語る時欠くことは出来ない存在となる。そしてその後1/4世紀以上もお世話になる事になった。

新人会員時分の出来事を『チャンチキおけさ事件』とし2009年ブログに書いていたので、参考まで下記にアドレスを記す。

https://eca21.hatenablog.com/entry/37666194 

 

ル・コルビジェ「ロンシャンの礼拝堂」フランス

 

建築道(みち)51・・携帯電話

 PTA役員2年目も1年目と同様に監事の役職を引き受けた。彼を引き入れたJC先輩の前会長は既にPTAを卒業し、同じJC先輩Aさんが会長を引き継いでいる。そして1つ年上のH先輩と別のJC先輩の奥様の2人が副会長となり、彼と彼のJC同期入会Y君奥様と2人で監事を務め、同じくJCOBのTさんの奥様と3学年主任の先生が庶務会計というJCのOBで固めた役員体制だった。彼の勤めた監事という役職は会計監査以外に大きな荷がなく気は楽だったが、抜けるに抜けれないPTAという泥沼に引き込まれていった。「来年はH副会長が会長をやるとして、2年後は誰がやるの?」・・・少しずつプレシャーが増した。「厄介な所に足を踏み入れてしまったかもしれない」。

 そんな時に彼の事務所でちょっとした事件が起きた。彼が外出時に学校から連絡があり、彼と連絡が取れずあちこち電話をかけ探した騒動だ。その雲隠れ事件から「緊急重大連絡の場合困る!」とツレが苦情を言い出し、半ば強制的に携帯電話を持つことになった。世はこの時分、PCと携帯電話が爆発的に普及した時期だった。いつも電話を持つのは便利だが、「そんなに人と連絡を取りたくない」「気軽な連絡がうるさい」そして「見張られている感じもする」などの理由で、彼は携帯を持たない派だった。しかし学校の事もあり「待たない」ではすまなくなってきた。その結果、外出時に「帰りに醤油買ってきて!」などと頻繁に連絡が来るようになった。建築家でいまだに携帯を持たない勇者がいるが、きっとそんな「束縛」が嫌なのだろう。しかし彼は時代に圧し潰された。たびたびスーパーに寄ることになり食材の種類や価格に敏感になった。そして、その後スマホになると更に依頼はエスカレートした。 

 仕事の仕方も変化していった。当時4件ほどの設計監理の現場を抱えていたが、工事監理として週1度の定例工事打合せ、2週間に1度の施主打ち合わせ、その他に週1度の現場チェックを行っていた。週1回の定例会議は1週間の工程の疑問点などを持ち寄り、細部まで現場で打ち合わせをする技術者としての真剣勝負だった。しかし携帯電話を持つことにより、いつとは無しに現場から頻繁に質問や確認の電話が来るようになった。良く取れば・・コミュニケーションが取り易くなったが、週1回現場での定例会議の緊張感が薄れてしまったことは言わずもがなだ。

 一方PTA役員。2年が過ぎると長女が卒業となった。長女は卒業式間近に足を挫き松葉杖での卒業式となる。ハラハラしながらツレは父母席、父は本部役員席で見守る。「相変わらず我娘はやってくれる」しかしながら「娘より自分がハラハラ状態かもしれない・・」と密かに彼は思った。

 彼はその頃にはPTAという組織を大雑把には理解していたと思う。役員の仕事はおおよそ学校行事参加、年1回のPTA総会、2か月に1度のPTA役員会と本部役員会、市内中学校PTA会議、東北中学校PTA会議、市内PTAソフトボール・バレーボール大会応援など・・という感じだった。あくまでも問題が何もなかった場合だが・・。

インド デリー