建築道(みち)22 ・・ベルリンの壁崩壊の年に

 何人かの知り合いに独立の決意を話すが「無謀なのでやめた方が良い」という声はなく、心配を口にしたのは勤めていた会社関係者だけだった。特に親戚縁者は異口同音に「あーそう。頑張ってね!」。それは親戚縁者に建築関係者がいなかったこともあり、答えようもなかったのだろう。彼はホッとする一方で拍子抜けして「みんな真剣に考えてるの?」と逆に不安にもなった。

 折しも1月に昭和が終わり6月に天安門事件、11月にベルリンの壁崩壊の年に設計事務所を開設し彼は独立を果たす。いや、「家族の笑顔あふれる住まいづくり」を目指し、「建築で何ができるか」を問う建築家としての戦いを始めた。

・・・偶然にもこれを書いた11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。あれから34年が経つ。当時は「これから平和な世界が訪れる」と思っていた・・・。

 話を戻す。

 それは日本バブル絶頂期の1989年。日経平均株価が年末の12月29日に38915.87円の最高値をつけたのを最後に、それ以降株価は低迷期を迎える。その20年後にはリーマンショックから6994.90円のバブル崩壊後の最安値を記録するなど株価は下がり続けた。この日経平均株価最高値は34年経った今も超えていない。さらにその間には高齢化や少子化が進み2004年を境に日本の人口が減少期に移る。奇しくも彼は日本の景気後退期、建築がしぼみ始める時期に独立の旗を揚げてしまった。しかしそれは今だから分かることで当時は知る由がなく、当時は好景気で日本中が沸騰しているかのようだった。今思えば彼もバブルに浮かれていたのかもしれない。

 引っ越し先はJR福島駅から1つ目の駅に降り歩いて10分、進行住宅地に建つ外壁シルバータイルとRC打ち放しの4階建てマンションの2階。階段を上り直ぐの分かりやすい場所で、3方が外部に面する明るい3LDKの住居だった。その一角の玄関正面部屋6帖をofficeとし、その通し間を家族とofficeの物置とした。事務所には机とドラフターと打ち合わせテーブルを置き、窓からは様々な表情の吾妻連峰を望むことが出来た。

 ツレの親友の旦那さんが故郷の街で事務器具屋さんを営んでいたので、コピー機とA1までの青焼き機を発注した。今ではあまり目にしないが、当時は図面と言えば青焼き。それはジアゾ式複写技法による複写で、感光紙に光の明暗が青色の濃淡として写る。設計事務所としては必需品と考えた。さらにワープロを購入した。ワープロワードプロセッサ(Word processor)文書作成編集機で、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムで文章専用コンピュータだが、現在のPCと同じ位の価格だった。当時はまだPCやインターネットが一般化しておらず、普及は数年後になる。因みに彼は会社勤めの時はキャド(コンピュータで設計することが出来るツール)導入担当だったが、彼の事務所でPCを使い始めたのは9年後の1998年、キャド完全導入は2002年で、それまでは手書きの図面にこだわっていた。

 事務機納入時にツレの友の旦那さんが「良かったらJCに入会してみては?勉強になるし、知人も増え、視野が広がるよ」と言う。旦那さんは別の街で入会しているらしい。彼はJC(青年会議所)についてほとんど知らなかったが、学生時代のボランティア活動時に何かのイベントで接触があった事を思い出す。夫婦で7年前福島に来たことからここでの独立としたが、知り合いが絶対的に少ないことが彼の抱える多く懸念材料の1つでもあった。自分を知って貰うことは是非とも必要で、入会資料を取り寄せようと思った。後になって思えば、このことが彼の生き方や考え方を変える出来事の一つとなった。

フランス パリ市街地