建築道(みち)24・・7年間の財産

 引っ越し荷物の整理が終わり、長女は再び福島のカトリック系幼稚園に通い始める。次女はお絵描き等で姉の帰りを待ち、同じ住居一角にあるお父さんの事務所に日に何度も遊びに行く。今まで家にいなかった父親が家にいるので嬉しかった、もの珍しかったのかもしれない。彼の10㎡の事務所には新調した机、学生時代から使っているドラフター、新婚時に造作デザインした頑丈すぎる打ち合わせテーブルと客用椅子、そしてツレの助言もありかなり奮発した仕事用革椅子を配置した。そこからは朝夕、四季折々に違う顔を見せる吾妻山を望めた。事務所は北側と西側に開口のある2方向採光の明るい場所だった。めったに客は来ないため打ち合わせテーブルは姉妹の遊び場になる事が多かった。

 建築士事務所の登録をして、事務所開設の挨拶状を前会社関係の業者さん・お客さん、親戚縁者、知人友人等に送る。 

 しばらくして彼の前職場関係から2件の連絡。一件目は昨年転勤までいた福島支店の営業課長が来所して「設計を手伝って欲しい」との依頼があった。彼は「住宅メーカーとは違う家づくり」を求めて独立したことから、その依頼を受けるかどうか悩んだが、「プー太郎状態も困る」と思い承諾した。次の年には支店社屋建築の設計依頼も受けた。社屋は建物の外観バランスを1:√2の割合を採用したことから「office√2」と名付けた。彼は前会社の設計をしながら「一大決心して独立したのに、また元に戻る」ことを恐れていた。少しづつ距離を置くことが両社にとって望ましいと考えていた。

 二件目は本社設計部でモデルハウス設計時にコラボレーションした東京のインテリアコーディネーターからの連絡。「編集者から住宅雑誌掲載のために建築家紹介依頼があり、推薦したいが良いか?」とのこと。願ってもない話なので了解した。その後、全国雑誌に4作品が掲載され知名度のない建築家にはありがたった。それは多くの人に作品を見てもらえると同時に、彼の建築家としての信用につながると思った。そして雑誌を見て東京でのプロジェクトの設計依頼を頂く。

 同じころ前会社勤務時の2人のお客さんからクライアントの紹介があった。この2プロジェクトは両方ともお医者さんの住宅建築で、新築と改造計画だった。両者とも個性的な家族で豊かな空間を望み、やりがいあるプロジェクトだった。新築プロジェクトは家族皆が音楽好き、それぞれが異なる楽器演奏をする。そんなことから家族4人+友人達と「演奏会のできる大空間」のある家を要望していた。敷地は東西に高低差があり造成工事も必要で「音楽家の家」は1年以上の工期を要した。また改造プロジェクトは建築10年のRC造2階建の住宅。居住空間が暗く、風通しが悪く結露を起すことからその対処と大規模模様替えを望んでいた。

 さらにその他にも前職で付き合いのあった大工さんや基礎屋さんからも設計の話を頂く。これらは「はたして設計依頼があるだろうか?」の不安に苛まれていた彼にとって朗報であり、とてもありがたかった。7年間必死に働いた事が報われた気がして、彼の胸を熱くした。そして「何とか設計でやっていけるかもしれない」と思わせてくれた。

 

スペイン コルドバ

 

建築道(みち)23 ・・バブちゃんの無鉄砲な挑戦

「40、50はな垂れ小僧。60、70は働き盛り・・・」と渋沢栄一が言うが、よく建築家も同じように言われる。そうすると彼の30才独立の戦いは「よちよちバブちゃん」が挑んだようなものと言える。孔子の「論語」を真に受け「三十にして立つ」ってしまったのだ。今思えば世の中を知らないというか、建築業界に疎(うと)いというか、若かったというか、向こう見ずというか・・いろいろ驚かされる。案の定、彼の独立後は想定外のことばかりだった。無知とは恐ろしいが、一方、乗り越えると新たなエネルギーが生まれるという側面もあった。 

 それまでの彼は7年間住宅メーカーで設計者として働いた。当時の住宅メーカー界は業者間の繋がりはほとんどなく、他社とは常に競合・ライバル関係にあり、他の住宅メーカーの設計者に会うことはあっても、あいさつ程度でほとんど話をしたことがなかった。一方、一般建築業界は時には受注競争をするが、ある時は協力しながら建築を行う大人の世界で、業界全体に横の繋がりがあった。建築業界内の一部、設計業界もしかりで、建築士会・事務所協会、建築家協会、設計協同組合などの団体があり、これら様々な組織の繋がりがある。しかもほどんどの人がそこで育ち建築を学ぶ、昔からの顔なじみである。よちよちバブちゃんはそれらの内情を知る由もなく、考えもしなかった。彼が設計事務所を始めると、業界の人々は「あいつは誰だ!」「今までどこに?」「どこの仕事を?」などと突然降って沸いたような男に驚き、扱いに困った。ある建築会社社長は彼に「あなたの様な独立は30年に一人だ」と言ったが、それはただの冗談ではなかった。 

 さらに住宅建築業界と一般建築業界の繋がりもほとんどなかった。独立前に電話帳で市内の設計事務所を数えると100以上あったが、それまで彼はその中の1社としか接点がなかった。住宅メーカーから建築家として独立することは、まったく新たな世界に飛び込むに等しかった。さらに生まれも育ちも福島市でなく彼の幼少期を知る人はなく、知り合いもほんの一握りしかいない。設計者として大きな実績がある訳でなく、名が売れている訳でもなく、有名な設計事務所にいた訳でもなく、自分の才能に絶対の自信がある訳でもない。そんな中の独立は彼の無鉄砲から出来たことで「良い建築を造りたい!」「家族の笑顔溢れる住まいを造りたい!」の情熱の熱に浮かされたような無謀な挑戦だった。 

 事務所運営見通しも甘い。彼は何となく「事務所経費もあるので売り上げが400万円は必要だろう」と思っていたが、実際独立して事務所を運営するとその3倍必要だった。しかも独立前には仕事の見通しは全く無く、設計料を幾らにすれば良いかも分からなかった。ここまで続けられたのは“大きな勘違いからの奇跡“と呼べる。独立から35年を迎えるが、福島で同じような勘違い建築家はいまだに聞かず、極めて稀な存在だ。彼のツレは今までやってこれたことに対して、「あなたは福島、そして社会に感謝して生きるべき」と言う。

 彼は設計事務所の登録を終えると、建築士会と事務機屋さんが進めてくれたJC(青年会議所)に入会することにした。こうしてバブちゃんのよちよち歩きが始まる。

中国 新疆ウイグル自治区 トルファン

 

建築道(みち)22 ・・ベルリンの壁崩壊の年に

 何人かの知り合いに独立の決意を話すが「無謀なのでやめた方が良い」という声はなく、心配を口にしたのは勤めていた会社関係者だけだった。特に親戚縁者は異口同音に「あーそう。頑張ってね!」。それは親戚縁者に建築関係者がいなかったこともあり、答えようもなかったのだろう。彼はホッとする一方で拍子抜けして「みんな真剣に考えてるの?」と逆に不安にもなった。

 折しも1月に昭和が終わり6月に天安門事件、11月にベルリンの壁崩壊の年に設計事務所を開設し彼は独立を果たす。いや、「家族の笑顔あふれる住まいづくり」を目指し、「建築で何ができるか」を問う建築家としての戦いを始めた。

・・・偶然にもこれを書いた11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。あれから34年が経つ。当時は「これから平和な世界が訪れる」と思っていた・・・。

 話を戻す。

 それは日本バブル絶頂期の1989年。日経平均株価が年末の12月29日に38915.87円の最高値をつけたのを最後に、それ以降株価は低迷期を迎える。その20年後にはリーマンショックから6994.90円のバブル崩壊後の最安値を記録するなど株価は下がり続けた。この日経平均株価最高値は34年経った今も超えていない。さらにその間には高齢化や少子化が進み2004年を境に日本の人口が減少期に移る。奇しくも彼は日本の景気後退期、建築がしぼみ始める時期に独立の旗を揚げてしまった。しかしそれは今だから分かることで当時は知る由がなく、当時は好景気で日本中が沸騰しているかのようだった。今思えば彼もバブルに浮かれていたのかもしれない。

 引っ越し先はJR福島駅から1つ目の駅に降り歩いて10分、進行住宅地に建つ外壁シルバータイルとRC打ち放しの4階建てマンションの2階。階段を上り直ぐの分かりやすい場所で、3方が外部に面する明るい3LDKの住居だった。その一角の玄関正面部屋6帖をofficeとし、その通し間を家族とofficeの物置とした。事務所には机とドラフターと打ち合わせテーブルを置き、窓からは様々な表情の吾妻連峰を望むことが出来た。

 ツレの親友の旦那さんが故郷の街で事務器具屋さんを営んでいたので、コピー機とA1までの青焼き機を発注した。今ではあまり目にしないが、当時は図面と言えば青焼き。それはジアゾ式複写技法による複写で、感光紙に光の明暗が青色の濃淡として写る。設計事務所としては必需品と考えた。さらにワープロを購入した。ワープロワードプロセッサ(Word processor)文書作成編集機で、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムで文章専用コンピュータだが、現在のPCと同じ位の価格だった。当時はまだPCやインターネットが一般化しておらず、普及は数年後になる。因みに彼は会社勤めの時はキャド(コンピュータで設計することが出来るツール)導入担当だったが、彼の事務所でPCを使い始めたのは9年後の1998年、キャド完全導入は2002年で、それまでは手書きの図面にこだわっていた。

 事務機納入時にツレの友の旦那さんが「良かったらJCに入会してみては?勉強になるし、知人も増え、視野が広がるよ」と言う。旦那さんは別の街で入会しているらしい。彼はJC(青年会議所)についてほとんど知らなかったが、学生時代のボランティア活動時に何かのイベントで接触があった事を思い出す。夫婦で7年前福島に来たことからここでの独立としたが、知り合いが絶対的に少ないことが彼の抱える多く懸念材料の1つでもあった。自分を知って貰うことは是非とも必要で、入会資料を取り寄せようと思った。後になって思えば、このことが彼の生き方や考え方を変える出来事の一つとなった。

フランス パリ市街地

 

建築道(みち)21・・「ルルドの泉」のお守り

 1年弱通った高台のカトリック系幼稚園が大好きだった長女。母の病で母の実家に行っていたので2か月間お休みしていた。その間に引っ越しが決まり、長女は昨年2か月だけ通園した福島の街中のカトリック系幼稚園に再び通う事になる。残念だったが家族で退園の報告と挨拶に行く。シスター達はツレの病を心配していてくれ、長女とツレの元気な姿をとても喜んでくれた。彼は事情を話し、お世話になったお礼と長女が「4月から福島のカトリック系幼稚園に通う」ことを伝える。彼女たちは家族を祝福してくれた。そして3人のシスターは母の健康と家族の無事を祈念してくれ、「ルルドの泉」のお守りを家族に渡した。夫婦は彼女たちの優しさにとても感激した。 

 長女は親の事情で2年間に3回も幼稚園に入ることになり大変だったと思う。しかし親も3回幼稚園の入園金を支払うことになり大変だった。さらに彼の独立決断の一角には長女の転勤反対大泣き騒動が少なからず影響していた。一方いつも姉を追いかけていた当時2歳の次女は当時のことは覚えてはいない。

 荷物整理が見えてきた引っ越し前夜、親族が倒れたと彼の兄から電話がある。それまでそんな重大な病気を抱えていたことを知らず、彼は動揺した。しかし明日引っ越しを控え直ぐに300km先の病院に行くことは出来ず、明日午前荷物を送り出してから向かう事を伝えた。

 翌日、荷物を送り出し、娘たちと良く遊んでくれたカズくん一家に見送られ1年間過ごした家を後にした。行先は引っ越し先ではなく、故郷の街にある病院に向かう。病人に「独立のため福島に戻った」ことを報告し、担当医師から病状を聞いた。夜は福島に戻り街中ホテルに宿泊、ツインの部屋に4人で寝る。彼は昨年まで福島に6年住んだので、福島でのホテル宿泊が妙な感じがした。

 次の日午前に引っ越し先で荷物を受け取り、再び一家で50km先の病院に向かう。病状は安定していた。安心して福島に戻り、荷ほどきを開始した。その日は最小限使うものだけを探した。夜、近くに弁当を買いに行く。それまで6年暮らした土地への出戻りで、どこに何を売っているかがある程度分かる。しかし夜の弁当屋の明かりはそれまでと違い、振り向けば福島の街も一年前と全く違って見えた。

 荷物を寄せて布団を敷くスペースを確保、いつものように家族で川の字に寝る。彼が目を閉じると、これまでの福島での数々の出来事や因縁が次々と頭を過る。学生時代に何度も受けた福島での自動車免許一発試験、サークル活動での福島の大学との交流、就職とツレの転勤、結婚後の新居、建築修行、二級・一級建築士受験・・・と。そして明日から独立への戦いが始まる。

 

 

中国 福建省

 

建築道(みち)20 ・・旅立ち前のプロジェクト

 年が開け間もなく昭和が終わる。彼の初めての独り暮らしの2か月間は順調に進んだ。ただその間、酔って炬燵に寝て足に低温火傷を負うということはあったが・・。ツレも病院を退院し実家に戻り体力も回復してきた。子供たちは相変わらず元気だ。その間、彼は毎週末片道高速道300kmを通った。

 彼らは設計事務所の開設のため、福島市に引っ越し先を探さねばならなかった。独立後の仕事は見通しがなく、出来るだけ経費を抑える必要があり、事務所兼用住宅が可能な物件を望んだ。住まいとしては以前住んでいた団地がよかったが、公営だったので事務所を開くことができず断念した。当時インターネットはまだ無く、物件探しは不動産情報誌であたりを付け、不動産屋さんに連絡して条件等を聞く方法をとった。そしてこれという物件があれば、平日にツレが物件を見に行き候補を絞り込んだ。彼女が今いる実家と福島とは50km程離れている。ツレは福島まで電車で行き、団地友の車で物件を見て回った。体調は回復したと言え病み上がりのツレ、団地友の協力はとてもありがたく、友の優しさは夫婦の独立への不安を和らがせた。 

 住まいは出来るだけ職住分離が可能で、設計事務所に相応しいところを望んだ。週末には彼も福島に行き探した。2候補が見つかり、それは街中と郊外の物件だった。街中の物件は少し古い中庭形式のRC共同住宅。郊外の物件は進行住宅地に建つ新築のおしゃれなRCマンション。どちらもそれほど広くなかったが、その中でも比較的広く明るい郊外のマンションに決めた。

 そんな時、彼の元に千葉県に住むちぃ姉から「購入する土地を決めたので家の計画を作って」と電話があった。「会社を辞め独立準備中で落ち着かなく、忙しい」と言うと、「大丈夫、大丈夫。計画やって貰えば大工さんに作ってもらうから。土地写真と測量図送るよ。急いでるので、よろしくネ」ガチャン!「まず土地を見ないと・・」と言いかけたが電話を切られた。ちぃ姉は簡単に考えている・・・彼は相変わらずだと思っい少し嬉しくなった。

 ちぃ姉の家族は夫婦と小学生の男子二人の4人家族。義兄は銀行員と仕事柄少々お堅い。それは一家がそれまで転勤で各地を廻り、やっと拠点が定まったというめでたい話。同じ地域育ちのちぃ姉夫婦は「故郷の木材と大工さんによる家」という構想を持っていた。千葉と故郷は250km程離れ、そこに故郷の木材を運び故郷の大工さんが泊りがけで作り上げるのは大変なことだ。しかし彼ら夫婦の仲人でもある義兄の父が手配することが決まっていた。まもなく引っ越そうとしている彼の住まいから建設敷地までは550kmほど離れていた。直ぐに現地は見れないが、ちぃ姉一家のお祝いとして計画案作成だけを引き受けることにした。送られて来た敷地と周辺写真、測量図、何回かの電話での聞き取り打ち合わせで進め、低温火傷が治りかけた引っ越し直前に計画案をまとめた。

 敷地は東側がバス通りに接していた。そこでの計画案はプライバシーを大切にした居間と食堂と寝室に囲まれた中庭デッキのある家とした。住まいの中心に食堂とキッチンを設け、開放的で明るく家族が集まりやすい空間にちぃ姉の笑顔を重ねた。

 思えばそれは彼が辞職宣言からの設計依頼第1号プロジェクト。この独立の年はツレの入院に始まり、彼の独立、親族が3人入院し1人が亡くなるという大変な一年だった。そんなこともあり彼は第1号プロジェクトを完成した後に見届けることになる。

ロッコ サハラ砂漠

 

建築道(みち)19 ・・不器用な男 

 「シマッタ!」彼は薄っぺらな封筒を手に後悔した。「辞職宣言はボーナス後にすべきだった」。それはそうだ。それまでいかに尽くしたとしても、会社を辞めることは反旗を掲げるに等しい。そんな社員に通常のボーナスを出すはずがない。それは極めて当たり前のことで、社会の厳しさを教える会社からの餞別だったようにも思う。このように彼は世間知らず。この不器用な男が独立して建築界で生き残れるだろうか。しかし「自分は不器用な男ですから」と高倉健さんも言う。不器用は悪い事ばかりではなく、目の前のお金を気にすべきでない‥と、彼は気を取り直す。その後独立当初、退職した会社にはいろいろお世話になることになる。

 不器用と言えば彼にはもっと気掛かりなことがある。彼は南東北生まれだが江戸っ子気質を持つ。「宵越しの銭は持たない」それまで(最近まで)貯金をしたことがなく、小金を持つと落ち着かなくなる性分なのだ。もしかすると、高齢親はその性格を心配して早く結婚させたかったのかもしれない。江戸っ子気質の彼はツレがいないとやっていけず、それは彼自身も良く分かっていた。そのため結婚後のお金の管理はすべてツレに任せているし、独立後もお金の管理は厳しくツレにやって貰わなければ潰れてしまう。

 独立には資金がいる。しかしボーナスは少なく、退職金も期待できず、本人は貯金ができない江戸っ子気質。資金を親族に頼る訳にはもちろんいかない。いくら世間知らずでもそれぐらいは理解している。時はバブル絶頂期、彼は少しばかりの株を所有していて、それが独立資金となった。今考えると、バブル崩壊を直前の独立は景気後退により建築着工件数が減る時期と重なり、決して良い時とは言えなかった。しかし株による資金調達からすれば良い判断だった。家族を思えば、彼はその時期を逃せば独立を果たせなかったかもしれない。

 仕事のけりをつけるために、彼は辞職宣言から4か月後に会社を去ることになった。妙に長く少々気まずい感じはしたが、その間に独立の準備をすることも出来た。その中で最大の問題は「whereどこ?」で設計事務所を開き、家族と何処に住むかだ。彼は独立を決めたが、その場所は決まってなかったのだ。

 候補は3か所。候補1は東京都内。建築の需要が多く仕事がたくさんあり、同級生の多くがそこで働いていた。しかし夫婦とも田舎者であり、はたして生活できるか確証が持てないので却下となる。候補2は生まれ故郷の街。商工業が発展していて知人も多く安心だが、そこで独立が失敗すれば戻るところがなく後が無くなる。親族友人に建築関係者もなく、安全策を取り候補から外した。候補3は昨年まで住んでいた福島。それまでそこに6年間住み、その間知人も出来た。1年間離れていたがまだみんな覚えてくれてるだろう。夏は暑いが人も自然も素晴らしく、豊富な果物や温泉は夫婦とも大好きだ。そして県庁所在地であり県内で1番所得額も高く、きっと良い家を建てたい人が多くいるはず、さらに故郷にも近い。独立場所は福島市とした。福島での独立を思った時のドキドキは雨上がりに雲の間から陽が差し込み、植物が光に輝き歓喜の歌を合唱する感じがした。彼は福島に恋をして、ここで独立をすることに決めた。

フランス マルセイユ

 

建築道(みち)18 ・・上司説得に寝る 

 転勤後に住んだ家をgooglマップで探す。そこは30年以上前に彼ら一家が1年間暮らし、近所の人にとても良くしてもらった場所。その団地や当時彼が通っていた理容室は直ぐに見つけられたが、住んだ家は一向に見つからない。30年以上経過し住居表示も変わり、周りは様変わりしている。もしかしたら建物はすでに取り壊したかもしれない。ツレに助けを求め、二人がかりで悪戦苦闘の末やっと発見した。そこはリフォームされ外壁色もツートンカラーに塗り替えられ、別な家のようになっていた。決め手は玄関ポーチのタイルと、その割れた部分がgooglストリートビューと家族写真が同じだったこと。探してる間、そこでの出来事が走馬灯のように頭の中を流れていく。ツレが「あなたはほとんどいなかったからね」などと言う。

 彼女が言うように、本社設計部での仕事は多忙で朝から夜中まで会社で過ごした。各支店のモデルハウスの企画設計・工事監理、特殊物件の設計、各支店設計課の管理、会社設立記念誌の編集などなどと彼はやり切れんばかりの仕事の山と対峙した。彼が目指す「家族の笑顔溢れる住まい造り」とは程遠い場所に来た思いがしていた。

 当時のモデルハウスは「いかに夢を抱いてもらえるか」を各社が競い合う。床面積も60~70坪と大きくゆとりのある計画とし、一般住宅の3倍の照明器具を設置し、豪華な内装・設備とし、3年周期くらいで最新設備を完備した新しい展示場を建て替える。お客さんは実際に建てる住宅の2~3倍の価格の展示場を見て夢を抱き住宅メーカーを決めることになる。彼はその不自然さが引っかかっていた。

 一方、転勤先の街は自然が豊かで美しく、食べ物も美味しく、周りの人は良くしてくれて、素晴らしい場所だった。休日ごとに家族4人で出かけた。アルバムを見ると、住んでいた短期間に福島から4家族が遊びに来て、一緒に牧場などでの写真なども残っている。

 秋の終わりツレが体調を崩し、3週間程の入院が必要になる。育児で無理をし過ぎたのかもしれない。姉妹はまだ2歳と5歳だ。彼の仕事も止められない。そこでツレは実家近くの病院に入院、姉妹はツレの実家に預けることになった。彼は初めての一人住まいとなり、週末はツレの実家に片道300kmの道を通った。家族が大変な時に一緒に居れないことが悔しく、家族に申し訳なく思った。いざという時に家族を守れない父親は失格だ。彼は会社を辞めることにした。

 「独立して設計事務所をしたい」とツレに相談すると「思うようにやってみれば」と言う。夫婦の両実家で話すと「わかりました」と言われ、姉もまた同じ。おいおいみんな真剣に考えてるの。設計事務所で独立するのはそんなに簡単じゃないんだよ、失敗したらどうするの・・と、彼は思った。

 「会社を辞めさせて頂きます」と上司に話すと彼の頬に涙が流れた。彼は我ながらその予期せぬことに戸惑った。「辞めてどうする」と聞かれ、彼は「建築家を目指します」と答える。後日飲みながら話すことになり、老舗のお洒落なバーで上司から説得を受けた。そのバーは特に照明が凝っていて、全体が暗い中でお酒だけに光があたり、その間接の明かりが人の顔を映すという具合だ。彼は上司と2人で飲むのは初めてでもあり、たて続けにグラスを飲み干す・・決して酒に強くはないのに。「建築家で生きるのは難しい」と言うようなことを上司は話す。しかし彼は酔ってしまい、その言葉が暗闇での子守唄のように心地よく聞こえた。そして彼は話を聞きながら寝てしまい、上司はお手上げ状態となった。居酒屋だったらそんなことにはならなかったと思う。その後、彼は7年間務め育ててもらった住宅メーカーを3月末に去ることになる。それは彼が30才、昭和最後の年だった。

サハラ砂漠