建築道(みち)17 ・・シスター事件

 入社6年が過ぎ長女がカトリック系幼稚園に入ったばかりの時、彼に本社設計部への転勤の話が来た。本社での仕事は主に住宅展示場モデルハウスの設計。それまで支店モデルハウス建築の際に何回か携わったので、なんとなく仕事内容は把握できた。住宅展示場では各ハウスメーカーがしのぎを削りモデルハウスを建てている。それは会社の顔であり、その出来によっては支店さらには会社の売り上げが左右する。その企画設計の仕事を任せられることは光栄でやりがいがある。ツレに相談すると、転勤に了解を得ることが出来た。決めると進みが速く、彼は2週間後に本社に行き、家族は1か月後に引っ越しとなった。

 引っ越し直前思わぬ問題が起きた。その年5歳になる長女が「お友達と別れるのはいやだ!」と言い出した。彼は娘達が「お父さんお母さんとならどこへでも行く」とウキウキして話すと思っていた。しかしそれまでにない大泣き反対に彼は動揺した。彼が思うより子供たちは成長していたのだ。でもお父さんはもう転勤している。大慌てでなだめ、何とか了解してもらう。思いもよらぬ反応に不意を突かれ、長女を説得しながら彼の眼がしらは熱くなった。彼が目指すのは「家族の笑顔溢れる住まい造り」だった。自分の転勤で子供を泣かすのはどうだろうか?との疑問が心の片隅に生まれた。本社転勤後は全国の支店から支店に転勤が続くことが予想もされた。しかし長女は引っ越し後3週間もすると新しい友達が出来て、福島のお友達との別れは忘れたように見えたが、彼の疑問は無くならなかった。

 前にも書いたが、福島での旅立ちの日は団地内家々から40人程が出てきて、大賑わいの忘れられない見送りを受ける。一方、引っ越し先の郊外住宅地の一軒家の社宅では引っ越し屋さんだけだった。それは当然のことだったが、あまりの落差に寂しくもあった。しかしそこは近くに里山田圃があり抜群の環境で暮らしやすいそうだった。引っ越し前に長女は街中のカトリック系幼稚園に入園したばかり。一家はキリスト教徒ということではなく、団地内での評判からその幼稚園を選んだ。しかし突然の転勤で1か月ほど通いながら、丁度慣れたころに退園となってしまった。その幼稚園から転勤地のカトリック系幼稚園を紹介された。他に幼稚園の情報もないので、夫婦はそこに入園させたいと思っていた。

 引っ越し後すぐ入園のための家族面談があり、一家4人で紹介を受けたカトリック系幼稚園に出かける。家から少し離れていたが、高台の幼稚園も抜群の環境で、面談した3人の先生も優しそうだった。家族面談最中に事件が起きた。2歳になったばかりの次女が飽きてしまい、ぐずり出した。あえなくツレと次女は別室で待機となり、彼と長女が面談を続けた。白人女性の先生が彼に「福島の幼稚園ではシスターは何人でしたか」と彼に聞く。彼はそれまでツレに任せっぱなしで前の幼稚園には行った事がなく、彼はカトリックでもない。彼は英語できたかと思った。彼女はさっきまで流調な日本語を話していたが、今回の質問はちょっとおかしい。しかし彼女に恥をかかせる訳にもいかないので、聞き返すことなく「2人姉妹です」と答えた。その瞬間、部屋全体に妙な雰囲気が漂った。先生方はその質問をなかったような感じで、次の質問に移った。

 帰り道に車で思った。シスターは姉妹でなくて、修道女のことだったと・・・。しかし彼は前のカトリック系幼稚園のシスターが何人だったかは知らないので、どちらにしても答えられなかった。彼はこのような父親でも娘を入園させてくれ、その後とてもお世話になったカトリック系幼稚園に今でも感謝している。 

フランス ロンシャンの礼拝堂 ル・コルビュジエ

 

建築道(みち)16 ・・劉邦との出会い

 福島に住み始めたころ、知人は大学時代の同級生3人くらいしかいなかった。しかも3人共卒業研究時の1年程度の付き合いで、それほど親しくはなかった。そのため「子供の頃こんなことをした!」などと言われることはなく、しがらみがなく自由な環境だった。しかし困った時に相談できる人がいないという側面もあった。しかし福島に来て就職、結婚、子育て生活の中で多くの人と出会い、相談に乗ってもらえ、助け助けられる人が出来た。福島は彼ら家族を温かく迎え、いろんな思い出をくれた。その中でもMさん一家にはとてもお世話になった。

 多くの場合、住宅会社の設計者は営業マンを通じて施主の意向を把握し、施主と直接会う機会は少ない。しかし彼は入社3年目に支店の監理建築士になり、主に特殊物件の設計に携わることになる。それは特別な住宅や共同住宅、店舗、旅館等で、施主さんと接する機会が増えていった。

 東京研修と同時期、彼はM邸新築プロジェクトに携わることになる。それは彼が20代後半の時、M氏は彼より10歳年上だった。M氏は市内ゼネコンの現場監督で設計もこなすスゴ技の技術士、いわゆる設計者泣かせの建築のプロだ。実は建築のプロが自宅を建てる時に、別建築家に頼むのはそれ程珍しい事ではない。人は自分のことが一番分からず、自宅建築となると邪念が入り客観的に判断が難しい事からだ。M氏はしがらみのない自由な家の建築を望み、3軒目の自宅建築を勤務ゼネコン施工でなく、他社に依頼した。住宅会社に建築のプロが自宅建築を依頼するのは珍しいプロジェクトだったと思う。後に、彼が建築家として独立してから、M邸増築計画の他にも4人の建築のプロから住宅設計の依頼を受けた。

 Mさん一家は二人娘の4人家族。住宅計画は南・西道路を持つ敷地に将来コの字型増築予定のL型プランを提案する。南玄関正面に中庭、左に和室、右にLDKその奥にサニタリーと2階個室が続く計画とした。将来増築計画は遠方に住む両親と同居に備えたものだ。父上は大工さんであり同居予定部屋は純和風の真壁作りの和室とした。将来同居の際は新たに客間を北側に増築しコの字型とする計画。建築においては当然M氏の拘りも、設計者の拘りもあり、二人の拘りがぶつかりながら計画が進んだ。その後実施設計、見積、契約、工事と進み住宅が無事完成した。しかしそれでは終わらなかった。

 同じ技術者とのこともあり、会った時からM氏と彼は妙に気が合った。完成後も付き合いは続き、だんだん家族ぐるみの付き合いになり、それは独立後も現在も続いている。10歳ほど年の差はあるM氏の二人娘と、彼の二人娘は4人姉妹のようにして育っていった。

 二人とも飲み会が好きだった。彼が独立後には多い時で週3回飲み歩いたこともある。いつも二人で飲み出すと3軒くらいハシゴとなり午前様になったが、M氏とだったらしょうがないという雰囲気が家族にあった。ある時は京都に建築二人旅に行き、ある時は両家族で1泊旅行をしたり、娘の結婚式でスピーチを頼んだり、彼の人生になくてはならない人になっていく。地元ゼネコンに勤めていたことから、建築関係者の知り合いが多く、みんなに慕われていた。彼は飲み歩く中で多くの建築関係者を紹介された。出会った当時M氏は途中入社のゼネコンで役職がなかったが、その後大出世することになる。彼は多くの建築関係者に好かれていたM氏を、酒で大成をなしたと言われる漢初代皇帝の劉邦のようだと思った。

劉邦の軍司、子房(張良)

 

建築道(みち)15・・東京研修と靴

 住宅会社福島支店時代での建築修行はハードだった。彼は朝8時から21時位まで勤務し、遅い時は24時を超えた。ある時、彼が19時帰宅し、ツレから「会社を辞めてきたの?」と言われたことがあるほどだ。今でも「会社勤めの7年間は1人で子育てをした」と言われる。彼女にも苦労を掛けたが、その修業時代の厳しさが彼の独立後を支えたとも言えよう。

 入社4年目に東北新幹線の上野-盛岡間が開通した。福島-東京間はそれまで3時間半掛かったが、新幹線だと最短1時間半となり東京がぐっと近くなった。ちょうど彼が建築士の免許を取り、家族が増えていたころ。会社では設計社員を対象に設計力向上目的の研修があった。それは全国支店選抜20名ほどを2か月に1度東京に集め、1泊2日の日程で建築、主にインテリアを学ぶというもの。講師は住宅建築家で名高い清家清氏の一派であったKデザイン研究所の男性教授だった。その教授はインテリアデザイナーで、インテリアデザインの基礎を教えてもらった。それまでの断片的だったインテリアの知識が線となり面となり繋がった。

 講義を受け課題を出され、2か月後に課題作品を提出、参加者の前での講評という流れを2年間続ける。彼は先生との相性が良く課題作品には真剣に取り組み、それを楽しんだ。評価も良く、それがさらに励みになった。講義の前後には有名建築や住宅展示場、資材メーカー、開催されていたつくば万博などを見学。夜は当時最先端と言われたカフェバーなどに出向き、設計仲間と酒を交わし建築に酔った。それはそれまで東北の片田舎しか知らない若者にとっては刺激的な経験だった。課題は就業以外に行い、彼は休日に自宅で課題に取り組む。そして研修終了後も設計コンペ挑戦や、建物見学の旅に出るなど建築を学び追い求めた。その時は設計コンペ入選を果たせなかったが、その手法を学べその後の設計コンペ参加の基礎となったと言えよう。一方、同時期に東北電力が実施した完成住宅コンテストで2回入選し、建築のプロとして個人名での表彰を初めて受ける。後で考えると、この2年間の東京研修が彼の心に「建築家として独立」を芽生えさせる切っ掛けになったのではないだろうか。 

 インテリアデザイナーの先生の講義内容は秀逸だった。しかし何より彼を驚かされたのは先生の靴だ。大きなベロが靴前方部分を隠す特徴的なデザインの革靴で、彼はそのような靴をそれまで見たことがなかった。それだけでただ者ではないことを物語っていた。先生は靴だけでなく鞄・時計・ペン・手帳などデザイナーにとって身に着けている物の重要性を知らしめ、それらはデザイナーとしての物に対する拘りや考え方を示していた。

 彼の住む地域ではそんな靴を履いている人はいないし、もちろん売ってもいない。それから彼は東京・仙台などの大都市に行くたびに同じ靴を探し、最近ではネットでも探す。しかし今でも同じ靴、もしくはその靴の衝撃を超える靴は見つけられない。

 それらの出来事の影響もあってか、彼は独立後にインテリアプランナーの資格を取り、インテリアデザインの高校教員免許を取得することになる。

ロッコ マラケシュ

 

建築道(みち)14 ・・家族が増えて

 因縁ある街福島は果物王国。イチゴ・サクランボからリンゴまで、一年中新鮮な地元果物が食べれる。イチゴは果物でないとすれば年の3/4になるが・・。特に硬くて甘い桃や蜜の入ったリンゴはここでしか味わえず、二人は無類の果物好きですぐに虜になる。さらに温泉王国でもある。福島中心市街地から車で30分以内に温泉街が3か所あり、それ以外の温泉も多々ある。温泉の質も様々があり、二人は白濁の温泉を好んだ。休日は午前温泉に入り、帰りにそばを食べ、途中産地直売所で果物を購入した。当時は新年会や忘年会も温泉宿でやることが多かった。

 新居は福島市内北方面の名前にマンションが付く木造アパートの2階。そこに決めたのは、四季変化する田園が南側に続く環境と、パートナーの会社に近かったからだ。二人とも田舎生まれで田や里山の風景が好きだ。

 入居2年目、第1子がお腹に宿り、臨月近くになると彼女は実家に戻り出産に備えた。当時は生まれるまで男女が分からなかった。真夏の夕方、義母の電話で長女出産を知る。職場の現場工程が書かれたホワイトボードの前で聞いた光景を、彼は今でも昨日のように覚えている。急いで45km離れた病院に駆け付けた。小さなベットごとに何人か並ぶ赤ちゃんの中でひときわ輝く様に見えた。彼はその状況にちなんだ名前を付けようとしたが、義母から反対され考えを改め、自分の分身のような娘をイメージした名前を付けた。後日、長女は本当に性格が似てきてしまい、彼はどう扱えば良いか困ることになる。

 パートナーは出産を契機に会社を退職した。家族が増え部屋も手狭になり、しばらくして彼の会社近くのタウンハウス団地に引っ越すことにした。そこは建物が新しく、部屋が広く、1階で庭付き。団地中央にはテニスコートと広場があり、いつも子供たちの歓声がこだました。更に里山に隣接し抜群に環境が良かったが、スーパーは少し遠かった。近くに花見山という名所もあり、親族から「ズーとそこにいてはどうか」と言われたくらいだ。そこは子育て世帯がたくさんいて、団地内で協力して子育てが出来た。

 長女から3年後に次女が生まれた。夕方に出産間近の連絡が来て病院に行く。長女は総合病院だったが、次女は郊外の産婦人科専門医院。するとつわりの波が薄れ「今夜は生まれそうにない」と言われた、しぶしぶ彼は実家に宿泊した。ところが急変その夜に生まれ、2番目も出産に立ち会えなかった。姉妹の出産にいなかったことが、時折話題となる。次女に会ったのは次の日早朝。それは引き込まれそうな青い空の日だった。彼はそこから故郷の空をイメージした名前を付けた。次女は小学生になるまで自分の事を僕と呼び、小学生までは男の子とばかり遊んでいた活発な女の子だった。中学生になると一変、大人になった彼女を見て、幼少時を知る人はみな驚いた。こうして家族4人がそろった。

 転勤までの4年間の団地住まいは素晴らしい経験だった。その時のご近所さんとは一生の付き合いとなっている。その間、彼は団地内に住む2家族の住宅建築の設計に携わる。転勤引っ越しの時、彼ら家族を団地住人40人程がお祭り状態で見送ってくれた。しかし1年後、彼が会社を辞め家族は福島に戻って来る。もしかしたら、団地住人は「あの騒ぎは何だったんだろう」と思ったかもしれない。

中国 福建土楼

 

建築道(みち)13・・建築士試験は過酷

 彼が勤めた唯一の会社、全国展開住宅会社には感謝している。そこで社会人というものを知り、建築や法律を学び、資格を取ることが出来た。しかし「根っこのところが自分と違う」という違和感を7年間持ち続けた。配属支店は24人の先鋭のスタッフで年間100棟もの注文住宅の物件をこなしていた。とにかく忙しく、1棟1棟家族に寄り添って設計など夢のまた夢だった。

 彼は大学で設計製図を教えたが、現場を知らない。そこで入社直後は設計の合間に木造平屋の住宅の現場監督をするという二刀流となった。その時の大工棟梁、年は若いが酒が好き、口が悪いが腕が良い、「形あるものは何でも作れる」と豪語する、昔ながらの職人気質を持つ人だった。そんな棟梁に一から現場を教えてもらう。これまで現場監督の経験はその現場と自邸建築の2棟だけなので、それは貴重な経験になった。

 入社の年に2級建築士を取り、2年目に1級建築士を取った。彼が資格専門の学校に通わず1級建築士を最短でとれたのは、その年に長女が生まれた事が大きな力になったはずだ。因みに次女が生まれた時は宅地建物取引主任者試験に合格する。

 建築士の製図試験は過酷。多くの体験者は2度とやりたくないと言う。1級建築士受験資格として大学建築科卒業後2年の設計等実務経験が必要で、卒業後3年目に始めて受験資格ができる。試験は学科と製図があり、学科試験に合格すると2か月半後に製図の試験がある。学科試験合否発表前に製図試験課題のテーマが発表されるため、その前に製図試験の準備をする必要がある。彼の受験した1級建築士製図試験の課題テーマは「居住施設」で言わば専門分野。専門誌の事前予想ではタウンハウス型共同住宅か高齢者施設だったが、試験当日発表された課題は「企業の寄宿舎」だった。これを6時間半で計画(プランニング)と基本計画図を描くという試験だ。2級建築士製図試験は法律に合致し図面が完成していれば合格する。しかし1級建築士は規模も大きく、計画の良し悪しも評価の対象になる。1級建築士の合格率は10%を切る。これは自動車運転免許「一発試験」と同程度の合格率だが、一発試験は次の日も受験できるが、1級建築士試験は年に1度しかない。

 課題テーマ発表から製図試験まで2カ月間、彼は基本計画図を毎日1枚書いた。6時間半の製図は冷静に対処すれば問題ないが、途中のちょっとしたトラブルで平常心でなくなる事が問題だ。彼は対策とし、指定床面積の範囲内で出来るだけコンパクトに面積を抑え、図面作成の時間を短縮させる作戦をとった。計画中に周りの人が書き始めると焦る。6時間半緊張し続け図面作成の作業は心身共にくたくたになる。建築士はそこを通り抜けて資格を取っているのだから、みんな偉いなーと思う。しかも昨今は取得後も3年に一度、1日講習と難問試験を受け続けなくてはならないという負担も負っている。

 彼は最初の目標、1級建築士免許を取得した。高齢親は建築士を志す近所3人の中で最初に取ったことを大いに喜ぶ。しかしその時は長年の大酒で体を壊し、酒騒ぎは出来なくなっていた。

スペイン コルドバ

 

建築道(みち)12・・急展開

 就職活動時期、彼の悩みは「whereどこ?」と「what何?」だった。その後「what何?」は住まいの設計者の道と決めた。しかし「whereどこ?」は大雪で東京に行きたくなくなってしまった事件以来進展がない。それは会社決定時も同じだった。決められなかったので、会社選定において全国展開の会社とした。その問題は棚上げ状態で、それは独立まで続く。その時にどうして「whereどこ?」に東京を選ばなかったのかを考える事が時々ある。

 そして住宅会社の配属支店が決まる。それは4年前免許取得で思い出の県庁所在地だった。

 都市計画研究室の副手時代の卒業研究と卒業設計も無事終わり、昨年と同じく全国に飛び立つ卒研生を見送った。昨年と違うのは彼も大学を離れ、県庁所在地にパートナーと移住することくらいだ。そう、初冬から春にかけて急速に話が進み、結婚することになった。それは彼の高齢の親が、当時付き合っていた大きな器を貰い持つ女をいたく気に入ってしまった事にあった。自分の結婚でもあるまいし。50kmも離れた街に離れて住んで機会を逃してしまうのでは・・と考えたらしい。彼はこれからプロの設計者を志す身で家庭を持つのはまだ早いのでは・・と思う一方、住まいの設計者を目指すのだから、家族を持つのも悪くない!と思い覚悟を決めた。研究室同級生の中で一番早く結婚、同級生は再び驚かされることになる。こうして彼は初めての一人暮らしのタイミングを逃し、今に至るまで一人暮らしをしたことがない。よく考えてみると彼女も同じであり、お産で実家に帰ったことを考えると、むしろ彼の方が一人暮らしは多い(一人暮らしと言えるかどうかはあるが・・)。しかしこれまで5回しかご飯を炊いたことがなく、毎日3食作って頂く身では、その事を強調するのは適切ではなかろう。

 入社予定会社の配属決定時には独身寮に入る予定でいた。しかし初春に結婚してしまい、そのような訳には行かなくなった。ここでその経緯を書き辛い様に、入社予定会社にも言い辛かったが報告する。驚かれ、祝福して頂き、新居を探しておいてくれると言ってもらえた。彼女も当時勤めていた会社の県庁所在地支店に移動できることになり、順調に動き出した。その後紹介されたアパートを見にパートナーと出掛けた。しかし思うような物件ではなく、悪戦苦闘の末に郊外の田圃広がる場所を新居と決める。探している間に「この道を通り早朝に彼女を駅まで迎えに行った」ことを思い出す。それはボランティアサークルの集まりでの出来事。二人とも別サークルの代表をしていて、付き合う前のことである。その事や免許取得騒動といい、ここは因縁のある街だと思った。

 その後に懐かしい仲間に祝ってもらった長時間結婚式と、その後の駅で大騒ぎした新婚旅行出発、建築学科各研究室に感謝を伝えて大学との別れ、新居の福島への引っ越し、住宅会社入社式と新人研修と怒涛のように時は流れ、新たな街での新生活が始まった。

中国 敦煌 ゴビ砂漠

 

建築道(みち)11・・ガンジス川の沐浴修行者

 大雪の中での卒業論文・設計発表会を終え、2つ上のサークル先輩と出席した日本武道館での卒業式が終わると、級友たちは1人また1人と全国に羽ばたいて行った。大学に副手として残った彼はそれを見送る。同級生を送るたびに4年間の出来事が脳裏をかすめた。

 昨年まで長髪でジーンズだった彼は、桜開花と共に髪を切りネクタイ姿になっていた。研究室に新しい卒研生が入ってくる。彼の仕事は卒研生指導、設計製図授業の準備・指導、農村環境改善施設計画研究etc.とあったが、空いた時間はすべて建築と向き合う事が出来た。

 副手は給料面でも建築を学べる点でもよかったが、毎年1年契約更新という不安定な立場でもあった。そこから講師の道を歩むには4年間の大学院ドクターコースをたどらなければならない。担当教授から大学院の誘いを受けたが、家の事情などを理由に辞退した。そんなことで研究室の副手では残ったが、相変わらず自分の進むべき道を模索していた。

 彼には建築設計を職業とするにあたり解決すべき問題があった。それはニュースで報じる談合・汚職などの建築スキャンダルについて、自分の中でどう折り合いを付けるかである。若者は濁った川でなく、清流で生きたかった。彼は大学4年間、ボランティアサークル活動で児童施設を訪問した。施設の子供たちはそこに住み、学び、遊び、生活していた。サークルメンバーは家族と離れて暮らす子供たちのストレスを、少しでも減らそうと様々な企画を行った。それは家族と一緒に成長する大切さを知っていればこそ、それを補うための活動だったとも言えよう。

 住宅建築それは建築の基本であり、原点だ。この4年間のサークル活動の経験と、その後の真剣に建築に向き合う経験が住宅の重要性を導き出し、自分の進むべき道を探し当てた。彼は笑顔溢れる家族のための「住まい造りがしたい!」と思うようになっていた。

 さっそく住宅設計中心アトリエ系設計事務所の所員募集を探す。しかし募集は少なく、有っても一般的な大卒初任給の2/3以下と条件が良くない。それは後に建築家として独立後に身に染みた事だが、卒業直ぐの所員を高給料で雇う余力が、残念ながら多くのアトリエ系事務所にはなかった。それも地方ではなおさらである。

 そこで設計施工の住宅会社設計者の道を選ぶ。それは企画住宅の会社でなく、様々な家族に寄り添える注文住宅の設計者を目指した。秋には会社を決め、彼は副手生活を1年で終わらせることにした。その副手期間はあたかも夜明け前にガンジス川で沐浴する修行者のように、設計者として旅立つ直前の特別な修行の場だった様に思う。世は第2次オイルショック真っ只中だった。

インドのバラナシ 夜明け前のガンジス川

ガンジス川の修行者