建築道(みち)15・・東京研修と靴

 住宅会社福島支店時代での建築修行はハードだった。彼は朝8時から21時位まで勤務し、遅い時は24時を超えた。ある時、彼が19時帰宅し、ツレから「会社を辞めてきたの?」と言われたことがあるほどだ。今でも「会社勤めの7年間は1人で子育てをした」と言われる。彼女にも苦労を掛けたが、その修業時代の厳しさが彼の独立後を支えたとも言えよう。

 入社4年目に東北新幹線の上野-盛岡間が開通した。福島-東京間はそれまで3時間半掛かったが、新幹線だと最短1時間半となり東京がぐっと近くなった。ちょうど彼が建築士の免許を取り、家族が増えていたころ。会社では設計社員を対象に設計力向上目的の研修があった。それは全国支店選抜20名ほどを2か月に1度東京に集め、1泊2日の日程で建築、主にインテリアを学ぶというもの。講師は住宅建築家で名高い清家清氏の一派であったKデザイン研究所の男性教授だった。その教授はインテリアデザイナーで、インテリアデザインの基礎を教えてもらった。それまでの断片的だったインテリアの知識が線となり面となり繋がった。

 講義を受け課題を出され、2か月後に課題作品を提出、参加者の前での講評という流れを2年間続ける。彼は先生との相性が良く課題作品には真剣に取り組み、それを楽しんだ。評価も良く、それがさらに励みになった。講義の前後には有名建築や住宅展示場、資材メーカー、開催されていたつくば万博などを見学。夜は当時最先端と言われたカフェバーなどに出向き、設計仲間と酒を交わし建築に酔った。それはそれまで東北の片田舎しか知らない若者にとっては刺激的な経験だった。課題は就業以外に行い、彼は休日に自宅で課題に取り組む。そして研修終了後も設計コンペ挑戦や、建物見学の旅に出るなど建築を学び追い求めた。その時は設計コンペ入選を果たせなかったが、その手法を学べその後の設計コンペ参加の基礎となったと言えよう。一方、同時期に東北電力が実施した完成住宅コンテストで2回入選し、建築のプロとして個人名での表彰を初めて受ける。後で考えると、この2年間の東京研修が彼の心に「建築家として独立」を芽生えさせる切っ掛けになったのではないだろうか。 

 インテリアデザイナーの先生の講義内容は秀逸だった。しかし何より彼を驚かされたのは先生の靴だ。大きなベロが靴前方部分を隠す特徴的なデザインの革靴で、彼はそのような靴をそれまで見たことがなかった。それだけでただ者ではないことを物語っていた。先生は靴だけでなく鞄・時計・ペン・手帳などデザイナーにとって身に着けている物の重要性を知らしめ、それらはデザイナーとしての物に対する拘りや考え方を示していた。

 彼の住む地域ではそんな靴を履いている人はいないし、もちろん売ってもいない。それから彼は東京・仙台などの大都市に行くたびに同じ靴を探し、最近ではネットでも探す。しかし今でも同じ靴、もしくはその靴の衝撃を超える靴は見つけられない。

 それらの出来事の影響もあってか、彼は独立後にインテリアプランナーの資格を取り、インテリアデザインの高校教員免許を取得することになる。

ロッコ マラケシュ