建築道(みち)26 ・・講習会質問騒動

 自宅マンションの一角で設計事務所を開業、一級建築士事務所登録は4月後半だった。それまで会社で何十人に会っていたのが突然、家族だけとなり「社会から忘れられてしまうのでは?」と疎外感を感じた。そんなこともあり、始めのうちはネクタイ姿で仕事をしていた。また運動不足とストレス解消のためジョギングを始め、後に歩いて3分のスポーツクラブでのジム・水泳・サウナに通った。

 彼の1日は起床後にジョギング、リビングダインイングで家族と朝食をとり、8:30に玄関近くの事務所に出勤、掃除後に仕事を始める。その後長女は「行って来ます!」と幼稚園に出掛ける。スクールバス見送り後に次女はお母さんと過ごす。そして時々事務所に顔を出し、作業机でお絵描きをしたりした。その絵を見ながら彼はドラフターで図面を書いた。昼食は次女とツレと3人で。その後次女はお昼寝に入り、ツレと業務打ち合わせ。そして長女が「ただいま!」と帰って来る。時折姉妹二人で事務所に遊びに来た。後に姉妹もスポーツクラブの水泳に通いだす。夕食終了後に彼は20:00に再び事務所へ行きドラフターに向かう。その後22時になったり24時になったり、時には朝方になる事もあった。デザインの仕事は凝り出すとキリがなく、30代には良く徹夜をした。

 これらは日中に外出しないバージョンのルーティーンワークで、もちろん打ち合わせや現場に行くこともある。携帯電話もメール・インターネットのない時期で、会って意思疎通が大事で来客者も少なくはなかった。挨拶状の効果か、もの珍しさからかスタート時は思ったより設計依頼があり内心ホッとした。しかし半年過ぎた頃、思った以上に経費が掛かり当初想定最低売り上げの3倍は必要という事に気付き、経費は抑え売り上げを増やさねばならぬことを悟る。

 そのためにも外に積極的に出掛け、もっと自分を磨き、自分の建築を知って貰わなければならなかった。そこで彼は建築士会とJC(青年会議所)に入会することにした。独立までハウスメーカーという狭い中での「お客様の気に入って貰える設計」を求め仕事をしてきたが、独立した建築家はそれだけでは不十分。「建築のチカラで何ができるか?」を探しに大海原に飛び出さなければならない。くしくもその年は6月に「天安門事件」、11月に「ベルリンの壁崩壊」があり、人々が自由を求めるうねりが巻き起こっていた。それらは彼の独立と全く無関係ではなかったろう。彼の自由への戦いが始まる。

 建築士会は施工に携わる建築士、同じ設計者でも目指す方向を異にする建築士、構造設計者、設備設計者諸兄と交流により建築に対する情報的や知識に幅が出来た。彼は地元育ちでも地元企業出身でもなかったが、大学の先輩が何人かいたことや、同世代が多かったこともあり温かく迎えられた。その中でいろいろなことを学んだ。

 入会当初に講習会質問騒動があった。士会では毎年市建築指導課や消防所予防課の方々を招き毎年新年会と共に「建築・消防行政に関する講習会」を実施している。1か月ほど前に講習会にむけ「行政への質問募集」の連絡があった。彼は勤めていた時、商品開発のため良く福島市の建築指導課でいろいろ相談に行ったが、今まで聞けなかったことを質問した。「どのような街を目指して建築の指導をされているのですか?」と質問用紙に記入しFAXした。後から考えると恥ずかしいような質問だ。見方によれば喧嘩を売っているようにも思える。しかしそうではなく、彼は社会の構築システムを知らなかったのだ。そうしたところ「これはどういう意味?」という質問電話が別々に先輩会員3人からあった。彼はその件がその後どうなったかの記憶がなく、今でもその質問騒動を思い出すと当時の「青さ」具合に冷や汗が出る。

スペイン セテニル・デ・ラス・ボデガス