建築道(みち)8・・卒業研究

 ボランティアサークルでの様々な活動、設計製図との戦い、苦悩の構造演習、実験レポートなど様々なレポートの山、春夏休みのバイト、合宿で北へ西へ南へのテント担いでのバックパッカー、秋の終りの文化祭、演劇部の助っ人出演etc.・・・彼はそんな生活がズーと続くように感じていたが、あっと言う間に3学年の初冬を迎える。その時期には来年に迫る卒業研究(卒研)の研究室を選ばなくてはならなかった。当時はゼミではなく研究室と呼んでいた。

 サークル内に1学年上の同じ建築のM先輩がいた。M先輩の部屋はキャンパスから近く、よくサークルでも使わせてもらったし、M先輩やその友人から建築学科内の授業内容や課題のポイントなどを教わった。彼が3学年の時、4学年のM先輩は都市計画研究室に入っていた。M先輩友人のY先輩も同じ研究室だった。二人は良く単位について話していたが、まだ取らなくてはならない単位は残っているはずだった。二人は「卒研は入る研究室により大変さが違う」とも話していた。彼はそれらのことから、先輩たちの選んだ都市計画研究室は「あまり忙しくない」と思った。そこで3年間共に講義を乗り越えてきた、建築研究会のKくんと自動車部のRくんを誘い都市計画研究室の門をたたいた。・・・春になりその情報「都市研卒論は簡単」は大間違いと判明した。その時両先輩はすでに卒業、何を思って研究室を選定したかを聞くことは出来なかった。 

 当時、その都市計画研究室は人気があり、希望しても入れるとは限らなかったが、彼ら3人は無事入る事が出来た。研究室の卒研生は卒業論文班が16名(内2名が土木学科)、卒業設計班が8名の総勢24名の大所帯。卒業研究論文と卒業設計を選定することができ、勘違いの3人は研究論文の経験を積みたいと論文班を選ぶ。しばらくすると他の卒研生との意気込みのズレを感じた。「僕ら都市計卒研は建築学科を代表するくらいでないと」とか、「あの研究室には負けれない!」とか言い出す始末。そんなつもりでなかった3人は「そーだねー」などとお茶を濁す。論文班は都市計画と農村計画があったが、彼は農村育ちで都会との生活環境にギャップを感じていたため、「農村生活改善施設基本計画」を選ぶ。農村計画は彼一人だけだった。4学年になると、彼ら論文班卒研生は毎日研究室に通い、そこから講義に向かう生活を卒業まで続けた。卒業設計班は選りすぐりのメンバーが集まり、研究室に週1度進行状況の報告をする程度だったが、彼は設計班の作る図面には刺激された。都市計画研究室卒研生の精鋭達は各々奮闘し卒業研究・設計に取り組み始め、彼ら3人も引きずりこまれていった。

イタリア北西部チンクエテッレ