建築道(みち)27 ・・飲み会

独立2年目。

 転勤、退社、独立で幼稚園を3回入園した長女も春から小学生!になる。今後の引っ越しの可能性を考えて、市内全域が学区の小学校に入学した。親はもう転校はさせたくなくなかった・・というのも一家は自宅建築を目指していたのだ。しかし独立直後は仕事も安定せず住宅ローン設定がしづらく、敷地のあてもなかった。長女は1年生から市内バスを乗り継ぎ市役所近くの学校に通った。彼女は友達も多く社交的だ。次女は春から幼稚園児!になる。姉の通ったカトリック系幼稚園年少のバラ組さんだ。近くの美味しいパン屋さんまで来るスクールバスで登園した。彼女は活動的。ある日、夫婦で参観日に行くと教室に次女がいない。先生に聞くと「今は隣の教室にいます」と言われ、親は慌てて年中さん教室へ探しに行ったことがあった。次女は自由奔放に幼稚園生活をエンジョイしていた。

 それまで専業主婦で一家を担っているツレは事務所の経理も担うことになる。彼女は長女出産までOLをしていた。その性格もあり小さな事務所の「厳しい経理担当」となった。経済観念が乏しく、江戸っ子気質を美徳とする彼とは違う。さらに彼女は短大の家政科出身で、建築デザインの教科も受講し建築とまったく無縁ではなかった。何より建築が好きだ・・・もしかすると彼より好きかもしれない。子供達の手も離れ始め、ほどなく経理の他に設計もやるようになる。そして建築を猛勉強、建築士の資格も取ることになる。彼女は建築の学校に行かず、独学で「主婦の立場から住まいを考える」建築設計を進める。その姿勢に既定路線で建築を進んできた彼は驚き尊敬もしている。もちろんツレは家事もこなしている。今では市の都市計画審議委員も務める。マンションはどうしても手狭なため、設立2年目後半に事務所を市役所近くに移した。設計事務所は何かと役所に行くことが多く、娘達の小学校・幼稚園に近かったことからだ。

 恐らく彼の人生を変えたであろうJC(青年会議所)入会もこの年、彼が32才の時だ。卒業の40才まで9年間は街づくり委員会を中心に活動し、理事、役員と貴重な経験が出来た。OBとなってからも昔の仲間とのつながりがある。当時の福島JCは会員が120名ほどで飲み会が多かった。役職のない一般会員は月1回の例会と委員会があり、会合の後は2次会となる。自動的に月に2回飲み会がセットされる。しかしそれはイベント等がない場合である。イベントがあるとその打合せで飲み会、イベント打ち上げで飲み会、同期会で飲み会、前年委員会の飲み会、県ブロックなどに出向するとその会合の後に飲み会、理事になると理事会で飲み会・・・という具合で活動すればするほど雪だるま式に飲み会が増えていく。時はバブル崩壊前夜。彼は入会当時にこの生活を何年続けられるだろう・・と思ったほどだ。(噂によると、今のJCはそんなに飲み会はやらないらしい)しかし嫌いな方でもなかったので、彼はほどなく順応した。JCの飲み会は平均すると週1.5回くらいの飲み会だったろう。これはJCばかりでないが当時福島では温泉旅館で忘年会、新年会、花見等をすることも良くあった。福島市内には温泉街が3か所あり、JCメンバーやOBにも温泉旅館経営者がいた。因みにJCばかりが飲み会がある訳でではない。建築士会も、現場でも、友人とも飲み会がある。彼は忘・新年会の時期は週4回くらいの飲み会をこなし、設計事務所運営は肝臓を鍛えなくてならないと思った。

スペイン サグラダファミリア

 

建築道(みち)26 ・・講習会質問騒動

 自宅マンションの一角で設計事務所を開業、一級建築士事務所登録は4月後半だった。それまで会社で何十人に会っていたのが突然、家族だけとなり「社会から忘れられてしまうのでは?」と疎外感を感じた。そんなこともあり、始めのうちはネクタイ姿で仕事をしていた。また運動不足とストレス解消のためジョギングを始め、後に歩いて3分のスポーツクラブでのジム・水泳・サウナに通った。

 彼の1日は起床後にジョギング、リビングダインイングで家族と朝食をとり、8:30に玄関近くの事務所に出勤、掃除後に仕事を始める。その後長女は「行って来ます!」と幼稚園に出掛ける。スクールバス見送り後に次女はお母さんと過ごす。そして時々事務所に顔を出し、作業机でお絵描きをしたりした。その絵を見ながら彼はドラフターで図面を書いた。昼食は次女とツレと3人で。その後次女はお昼寝に入り、ツレと業務打ち合わせ。そして長女が「ただいま!」と帰って来る。時折姉妹二人で事務所に遊びに来た。後に姉妹もスポーツクラブの水泳に通いだす。夕食終了後に彼は20:00に再び事務所へ行きドラフターに向かう。その後22時になったり24時になったり、時には朝方になる事もあった。デザインの仕事は凝り出すとキリがなく、30代には良く徹夜をした。

 これらは日中に外出しないバージョンのルーティーンワークで、もちろん打ち合わせや現場に行くこともある。携帯電話もメール・インターネットのない時期で、会って意思疎通が大事で来客者も少なくはなかった。挨拶状の効果か、もの珍しさからかスタート時は思ったより設計依頼があり内心ホッとした。しかし半年過ぎた頃、思った以上に経費が掛かり当初想定最低売り上げの3倍は必要という事に気付き、経費は抑え売り上げを増やさねばならぬことを悟る。

 そのためにも外に積極的に出掛け、もっと自分を磨き、自分の建築を知って貰わなければならなかった。そこで彼は建築士会とJC(青年会議所)に入会することにした。独立までハウスメーカーという狭い中での「お客様の気に入って貰える設計」を求め仕事をしてきたが、独立した建築家はそれだけでは不十分。「建築のチカラで何ができるか?」を探しに大海原に飛び出さなければならない。くしくもその年は6月に「天安門事件」、11月に「ベルリンの壁崩壊」があり、人々が自由を求めるうねりが巻き起こっていた。それらは彼の独立と全く無関係ではなかったろう。彼の自由への戦いが始まる。

 建築士会は施工に携わる建築士、同じ設計者でも目指す方向を異にする建築士、構造設計者、設備設計者諸兄と交流により建築に対する情報的や知識に幅が出来た。彼は地元育ちでも地元企業出身でもなかったが、大学の先輩が何人かいたことや、同世代が多かったこともあり温かく迎えられた。その中でいろいろなことを学んだ。

 入会当初に講習会質問騒動があった。士会では毎年市建築指導課や消防所予防課の方々を招き毎年新年会と共に「建築・消防行政に関する講習会」を実施している。1か月ほど前に講習会にむけ「行政への質問募集」の連絡があった。彼は勤めていた時、商品開発のため良く福島市の建築指導課でいろいろ相談に行ったが、今まで聞けなかったことを質問した。「どのような街を目指して建築の指導をされているのですか?」と質問用紙に記入しFAXした。後から考えると恥ずかしいような質問だ。見方によれば喧嘩を売っているようにも思える。しかしそうではなく、彼は社会の構築システムを知らなかったのだ。そうしたところ「これはどういう意味?」という質問電話が別々に先輩会員3人からあった。彼はその件がその後どうなったかの記憶がなく、今でもその質問騒動を思い出すと当時の「青さ」具合に冷や汗が出る。

スペイン セテニル・デ・ラス・ボデガス

 

建築道(みち)25 ・・「地盤」「看板」「鞄」

 俗に三バンと呼ばれる「地盤」「看板」「鞄」は政治家に必要とされる3要素だが、地方での建築家の独立も同じようなものが必要と言えよう。それはクライアントに選ばれないと仕事に繋がらないからだ。3要素の「地盤」は支持地域、「看板」は知名度、「鞄」は資金である。しかし彼はそのどれも不足していた。前に言った様に彼は生まれも育ちも別の地域、近隣ではあるが「地盤」という点では不安があった。しかし前会社での7年間により彼を応援する人が現われた。それは決して固い地盤とまでは言えなかったが、彼に「良い仕事が次の仕事を生む」という希望を与えるには十分だった。その後に彼は「福島市を選んだ男」と自己紹介した。

 次の要素「看板」もない。それまでの彼にあるのは一級建築士宅建合格、東北電力建築作品コンテスト入賞くらい。俗に「小石を投げると一級建築士にあたる」や、「建築士の資格は足の裏の米粒。取らないと気になるが、取っても食えない」などと言う。数ある一級建築士の中で設計者として選ばれる実力を付けなければならないと思った。「そのために何をすべきか」が彼の課題で、それは今でも続いている。その一つとして独立2年目に国土交通省のインテリアプランナーの資格を取得した。そして2年後には「インテリア高校教員免許」の取得を目指した。これらは前会社在職中、東京で2年間インテリアについて研修・研究の影響がある。中でも「インテリア高校教員免許」は当時、県内でその免許を持っている人はいなかった。その理由として福島県内の高校にはインテリア科がなかった事、さらに建築の高校教員免許があればインテリア科を教えることが出来た事からだ。しかし誰もいない、ただ1人と言うのがなんとも気持ちが良い。インテリア教員免許試験は一次試験を仙台で受験しパスした。そして二次試験が東京で行われた。東京試験会場では筆記試験の他、面接試験もあった。その面接時に試験管から「福島県ではインテリア科がないが、何故取得するのか?」の質問があったが、彼は「将来のため」と答えた。インテリア教員免許を設計者として選ばれるための資格武装とも考え、設計者としての「看板」を補おうとした。これまで2つの資格を直接的に使う事はなかったが、文部省から直接郵送された「インテリア高等学校教員資格認定試験合格証」と、県教育委員会からの「インテリアの高等学校一種免許状」を彼は今でも大切に保管している。 

 もちろん「鞄」もない。彼は江戸っ子気質で貯金はそれほどなく、退職金も雀の涙、独立資金は少しばかり保有していた株だった。それは日経平均株価が最高値を記録したバブル崩壊寸前の1989年。独立当初春に所有株の2/5を売却した。夏になるとその株が突然上がり出した。残りの株が春に売却時の2倍3倍4倍・・・となる。株の急上昇は仕事どころではなくなり、堪え切れず8倍になったところで売却した。ところが値上がりはまだ続いた。その後も9倍10倍と上昇する。彼は買い戻そうかとも思ったが「ローンを組んでまでしては」とすんでのところで思い止まり、断念した。結局その株は春の売却時より最高で15倍まで上がる。彼が購入時と比較すると充分値上がりして、それはそれで良しとすべきだった。しかし最高値15倍を見てしまった彼は「なんか損した」気分になる。そこであろうことか別の株をいくつか購入した。しかし時代はバブル崩壊期、次の年から20年以上日経平均株価は下がり続け、ついには最高値の1/5にまでなった。結果、バブル崩壊は子供たちのピアノと2・3度しか使ってない重すぎるブランド旅行鞄だけを残す。ローンを組むまでにならなかったのが救いだ。バブル崩壊は彼に「地道が一番、あぶく銭はなくなる」という教訓を与える事になる。

 

 陽は昇り 陽は沈み 陽は昇り 陽は沈み 日々は流れ過ぎる  

 Sunrise ,sunset. Sunrise, sunset. Swiftly flow the days.

中国 敦煌

 

建築道(みち)24・・7年間の財産

 引っ越し荷物の整理が終わり、長女は再び福島のカトリック系幼稚園に通い始める。次女はお絵描き等で姉の帰りを待ち、同じ住居一角にあるお父さんの事務所に日に何度も遊びに行く。今まで家にいなかった父親が家にいるので嬉しかった、もの珍しかったのかもしれない。彼の10㎡の事務所には新調した机、学生時代から使っているドラフター、新婚時に造作デザインした頑丈すぎる打ち合わせテーブルと客用椅子、そしてツレの助言もありかなり奮発した仕事用革椅子を配置した。そこからは朝夕、四季折々に違う顔を見せる吾妻山を望めた。事務所は北側と西側に開口のある2方向採光の明るい場所だった。めったに客は来ないため打ち合わせテーブルは姉妹の遊び場になる事が多かった。

 建築士事務所の登録をして、事務所開設の挨拶状を前会社関係の業者さん・お客さん、親戚縁者、知人友人等に送る。 

 しばらくして彼の前職場関係から2件の連絡。一件目は昨年転勤までいた福島支店の営業課長が来所して「設計を手伝って欲しい」との依頼があった。彼は「住宅メーカーとは違う家づくり」を求めて独立したことから、その依頼を受けるかどうか悩んだが、「プー太郎状態も困る」と思い承諾した。次の年には支店社屋建築の設計依頼も受けた。社屋は建物の外観バランスを1:√2の割合を採用したことから「office√2」と名付けた。彼は前会社の設計をしながら「一大決心して独立したのに、また元に戻る」ことを恐れていた。少しづつ距離を置くことが両社にとって望ましいと考えていた。

 二件目は本社設計部でモデルハウス設計時にコラボレーションした東京のインテリアコーディネーターからの連絡。「編集者から住宅雑誌掲載のために建築家紹介依頼があり、推薦したいが良いか?」とのこと。願ってもない話なので了解した。その後、全国雑誌に4作品が掲載され知名度のない建築家にはありがたった。それは多くの人に作品を見てもらえると同時に、彼の建築家としての信用につながると思った。そして雑誌を見て東京でのプロジェクトの設計依頼を頂く。

 同じころ前会社勤務時の2人のお客さんからクライアントの紹介があった。この2プロジェクトは両方ともお医者さんの住宅建築で、新築と改造計画だった。両者とも個性的な家族で豊かな空間を望み、やりがいあるプロジェクトだった。新築プロジェクトは家族皆が音楽好き、それぞれが異なる楽器演奏をする。そんなことから家族4人+友人達と「演奏会のできる大空間」のある家を要望していた。敷地は東西に高低差があり造成工事も必要で「音楽家の家」は1年以上の工期を要した。また改造プロジェクトは建築10年のRC造2階建の住宅。居住空間が暗く、風通しが悪く結露を起すことからその対処と大規模模様替えを望んでいた。

 さらにその他にも前職で付き合いのあった大工さんや基礎屋さんからも設計の話を頂く。これらは「はたして設計依頼があるだろうか?」の不安に苛まれていた彼にとって朗報であり、とてもありがたかった。7年間必死に働いた事が報われた気がして、彼の胸を熱くした。そして「何とか設計でやっていけるかもしれない」と思わせてくれた。

 

スペイン コルドバ

 

建築道(みち)23 ・・バブちゃんの無鉄砲な挑戦

「40、50はな垂れ小僧。60、70は働き盛り・・・」と渋沢栄一が言うが、よく建築家も同じように言われる。そうすると彼の30才独立の戦いは「よちよちバブちゃん」が挑んだようなものと言える。孔子の「論語」を真に受け「三十にして立つ」ってしまったのだ。今思えば世の中を知らないというか、建築業界に疎(うと)いというか、若かったというか、向こう見ずというか・・いろいろ驚かされる。案の定、彼の独立後は想定外のことばかりだった。無知とは恐ろしいが、一方、乗り越えると新たなエネルギーが生まれるという側面もあった。 

 それまでの彼は7年間住宅メーカーで設計者として働いた。当時の住宅メーカー界は業者間の繋がりはほとんどなく、他社とは常に競合・ライバル関係にあり、他の住宅メーカーの設計者に会うことはあっても、あいさつ程度でほとんど話をしたことがなかった。一方、一般建築業界は時には受注競争をするが、ある時は協力しながら建築を行う大人の世界で、業界全体に横の繋がりがあった。建築業界内の一部、設計業界もしかりで、建築士会・事務所協会、建築家協会、設計協同組合などの団体があり、これら様々な組織の繋がりがある。しかもほどんどの人がそこで育ち建築を学ぶ、昔からの顔なじみである。よちよちバブちゃんはそれらの内情を知る由もなく、考えもしなかった。彼が設計事務所を始めると、業界の人々は「あいつは誰だ!」「今までどこに?」「どこの仕事を?」などと突然降って沸いたような男に驚き、扱いに困った。ある建築会社社長は彼に「あなたの様な独立は30年に一人だ」と言ったが、それはただの冗談ではなかった。 

 さらに住宅建築業界と一般建築業界の繋がりもほとんどなかった。独立前に電話帳で市内の設計事務所を数えると100以上あったが、それまで彼はその中の1社としか接点がなかった。住宅メーカーから建築家として独立することは、まったく新たな世界に飛び込むに等しかった。さらに生まれも育ちも福島市でなく彼の幼少期を知る人はなく、知り合いもほんの一握りしかいない。設計者として大きな実績がある訳でなく、名が売れている訳でもなく、有名な設計事務所にいた訳でもなく、自分の才能に絶対の自信がある訳でもない。そんな中の独立は彼の無鉄砲から出来たことで「良い建築を造りたい!」「家族の笑顔溢れる住まいを造りたい!」の情熱の熱に浮かされたような無謀な挑戦だった。 

 事務所運営見通しも甘い。彼は何となく「事務所経費もあるので売り上げが400万円は必要だろう」と思っていたが、実際独立して事務所を運営するとその3倍必要だった。しかも独立前には仕事の見通しは全く無く、設計料を幾らにすれば良いかも分からなかった。ここまで続けられたのは“大きな勘違いからの奇跡“と呼べる。独立から35年を迎えるが、福島で同じような勘違い建築家はいまだに聞かず、極めて稀な存在だ。彼のツレは今までやってこれたことに対して、「あなたは福島、そして社会に感謝して生きるべき」と言う。

 彼は設計事務所の登録を終えると、建築士会と事務機屋さんが進めてくれたJC(青年会議所)に入会することにした。こうしてバブちゃんのよちよち歩きが始まる。

中国 新疆ウイグル自治区 トルファン

 

建築道(みち)22 ・・ベルリンの壁崩壊の年に

 何人かの知り合いに独立の決意を話すが「無謀なのでやめた方が良い」という声はなく、心配を口にしたのは勤めていた会社関係者だけだった。特に親戚縁者は異口同音に「あーそう。頑張ってね!」。それは親戚縁者に建築関係者がいなかったこともあり、答えようもなかったのだろう。彼はホッとする一方で拍子抜けして「みんな真剣に考えてるの?」と逆に不安にもなった。

 折しも1月に昭和が終わり6月に天安門事件、11月にベルリンの壁崩壊の年に設計事務所を開設し彼は独立を果たす。いや、「家族の笑顔あふれる住まいづくり」を目指し、「建築で何ができるか」を問う建築家としての戦いを始めた。

・・・偶然にもこれを書いた11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。あれから34年が経つ。当時は「これから平和な世界が訪れる」と思っていた・・・。

 話を戻す。

 それは日本バブル絶頂期の1989年。日経平均株価が年末の12月29日に38915.87円の最高値をつけたのを最後に、それ以降株価は低迷期を迎える。その20年後にはリーマンショックから6994.90円のバブル崩壊後の最安値を記録するなど株価は下がり続けた。この日経平均株価最高値は34年経った今も超えていない。さらにその間には高齢化や少子化が進み2004年を境に日本の人口が減少期に移る。奇しくも彼は日本の景気後退期、建築がしぼみ始める時期に独立の旗を揚げてしまった。しかしそれは今だから分かることで当時は知る由がなく、当時は好景気で日本中が沸騰しているかのようだった。今思えば彼もバブルに浮かれていたのかもしれない。

 引っ越し先はJR福島駅から1つ目の駅に降り歩いて10分、進行住宅地に建つ外壁シルバータイルとRC打ち放しの4階建てマンションの2階。階段を上り直ぐの分かりやすい場所で、3方が外部に面する明るい3LDKの住居だった。その一角の玄関正面部屋6帖をofficeとし、その通し間を家族とofficeの物置とした。事務所には机とドラフターと打ち合わせテーブルを置き、窓からは様々な表情の吾妻連峰を望むことが出来た。

 ツレの親友の旦那さんが故郷の街で事務器具屋さんを営んでいたので、コピー機とA1までの青焼き機を発注した。今ではあまり目にしないが、当時は図面と言えば青焼き。それはジアゾ式複写技法による複写で、感光紙に光の明暗が青色の濃淡として写る。設計事務所としては必需品と考えた。さらにワープロを購入した。ワープロワードプロセッサ(Word processor)文書作成編集機で、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムで文章専用コンピュータだが、現在のPCと同じ位の価格だった。当時はまだPCやインターネットが一般化しておらず、普及は数年後になる。因みに彼は会社勤めの時はキャド(コンピュータで設計することが出来るツール)導入担当だったが、彼の事務所でPCを使い始めたのは9年後の1998年、キャド完全導入は2002年で、それまでは手書きの図面にこだわっていた。

 事務機納入時にツレの友の旦那さんが「良かったらJCに入会してみては?勉強になるし、知人も増え、視野が広がるよ」と言う。旦那さんは別の街で入会しているらしい。彼はJC(青年会議所)についてほとんど知らなかったが、学生時代のボランティア活動時に何かのイベントで接触があった事を思い出す。夫婦で7年前福島に来たことからここでの独立としたが、知り合いが絶対的に少ないことが彼の抱える多く懸念材料の1つでもあった。自分を知って貰うことは是非とも必要で、入会資料を取り寄せようと思った。後になって思えば、このことが彼の生き方や考え方を変える出来事の一つとなった。

フランス パリ市街地

 

建築道(みち)21・・「ルルドの泉」のお守り

 1年弱通った高台のカトリック系幼稚園が大好きだった長女。母の病で母の実家に行っていたので2か月間お休みしていた。その間に引っ越しが決まり、長女は昨年2か月だけ通園した福島の街中のカトリック系幼稚園に再び通う事になる。残念だったが家族で退園の報告と挨拶に行く。シスター達はツレの病を心配していてくれ、長女とツレの元気な姿をとても喜んでくれた。彼は事情を話し、お世話になったお礼と長女が「4月から福島のカトリック系幼稚園に通う」ことを伝える。彼女たちは家族を祝福してくれた。そして3人のシスターは母の健康と家族の無事を祈念してくれ、「ルルドの泉」のお守りを家族に渡した。夫婦は彼女たちの優しさにとても感激した。 

 長女は親の事情で2年間に3回も幼稚園に入ることになり大変だったと思う。しかし親も3回幼稚園の入園金を支払うことになり大変だった。さらに彼の独立決断の一角には長女の転勤反対大泣き騒動が少なからず影響していた。一方いつも姉を追いかけていた当時2歳の次女は当時のことは覚えてはいない。

 荷物整理が見えてきた引っ越し前夜、親族が倒れたと彼の兄から電話がある。それまでそんな重大な病気を抱えていたことを知らず、彼は動揺した。しかし明日引っ越しを控え直ぐに300km先の病院に行くことは出来ず、明日午前荷物を送り出してから向かう事を伝えた。

 翌日、荷物を送り出し、娘たちと良く遊んでくれたカズくん一家に見送られ1年間過ごした家を後にした。行先は引っ越し先ではなく、故郷の街にある病院に向かう。病人に「独立のため福島に戻った」ことを報告し、担当医師から病状を聞いた。夜は福島に戻り街中ホテルに宿泊、ツインの部屋に4人で寝る。彼は昨年まで福島に6年住んだので、福島でのホテル宿泊が妙な感じがした。

 次の日午前に引っ越し先で荷物を受け取り、再び一家で50km先の病院に向かう。病状は安定していた。安心して福島に戻り、荷ほどきを開始した。その日は最小限使うものだけを探した。夜、近くに弁当を買いに行く。それまで6年暮らした土地への出戻りで、どこに何を売っているかがある程度分かる。しかし夜の弁当屋の明かりはそれまでと違い、振り向けば福島の街も一年前と全く違って見えた。

 荷物を寄せて布団を敷くスペースを確保、いつものように家族で川の字に寝る。彼が目を閉じると、これまでの福島での数々の出来事や因縁が次々と頭を過る。学生時代に何度も受けた福島での自動車免許一発試験、サークル活動での福島の大学との交流、就職とツレの転勤、結婚後の新居、建築修行、二級・一級建築士受験・・・と。そして明日から独立への戦いが始まる。

 

 

中国 福建省