建築道(みち)34 ・・記憶にありません!

 一人酒はほとんどしない。飲むと直ぐ顔が赤くなり、特に日本酒に弱い。しかし彼は宴が好きだ。普段飲まないからか日本酒をビール感覚で飲んでしまう。今の日本酒は口当たりがよく美味いので、つい調子に乗ってしまい時折記憶が飛ぶ。ほとんどの場合、まだらな状態の記憶喪失だが、彼は朝まで完全に記憶をなくしたという恐ろしい経験を持つ。それは福島での3つの設計コンペに参加していた頃の話だ。 

 朝、娘たちの「行って来まーす!」の声で目を覚ます。うーん、頭が痛い、ひどい二日酔いだ。これじゃ午前中は仕事にならない・・・などと考える。・・・あれ?昨晩どうやって帰って来たんだ?。足の方向に上着からズボンまで吐いた跡が残る、汚れたスーツが掛けてある。「たしか福島JC設立祝賀会の司会をしていた・・・。うーん・・・」枕元の水を飲む。「乾杯したところから、思い出せない」

 ツレに話を聞くと、「24:00頃にNさんが送ってくれたのよ。私、どうしてこんな状態の人を置いて行くんだろーと思ったわ」と言う。Nさんは同じ歳のJCメンバーでとても真面目である。「・・・あれから祝賀会はどうなったんだろう」・・・頭痛より司会のその後が気になってきた。「・・もしかしたら福島市で仕事が出来なくなるほどの失態をしでかしたのでは?…」時間と共に不安が大きく膨らむ。これは二日酔いどころじゃない。

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 JCは40歳までが現役会員で40歳を超えるとOB会員になる。福島青年会議所(福島JC)創立記念祝賀会は現役の他にOB会員も参加する数少ない年会行事で、OBの出席で現役会員は少なからず緊張する。出席OBは福島市の企業を代表するそうそうたる方々。そんな中で彼は祝賀会の司会を仰せつかる。

 祝賀会は舞台前方がOB会員、後方が現役の席となる。つまりOB会員の目前で200人程度の宴会の司会だった。もちろんOB諸兄は年上の方々ばかりで中には30歳以上離れた方も出席され、失礼があってはいけない。参加OBの紹介などは名前を間違ってはいけないと極度に緊張する。

 宴会が始まりOB紹介も無事こなし、乾杯!が終わり歓談の時間となる。やっと司会も一息つく。すると、目前の席の比較的歳が近い顔見知りのOBが「ちょっと司会が固くてつまらない。祝賀会なんだからもっと楽しく行こう!」などと言い出す。「一杯飲んでやったら・・」と彼を呼びコップに日本酒を注ぐ・・・。司会席に戻り進行を続ける。「うーん。まだちょっと固いなー。もう一杯」と・・・、何回か繰り返す。そしてその後は覚えていない。

 心配になりNさんに電話する。「昨日の司会大丈夫だったかなー?」と聞くと「今までになく面白かったけど、でも大丈夫じゃない?!」と言う。「設立祝賀会が面白い・・」て、どうなの?と改めて心配になる。そしてどんな状況だったかを、さらに何人かに聞き取り電話をする。そうすると「司会が一番受けた」とか、「理事長を呼び捨にした」とか、「まさかあんなことを言うとは」とか・・・みんな面白がって真偽が分からないことを次々に言いだす。しかし誰も「誰かに謝りに行った方が良い」などの話はなかったので、まずは良かったことにして忘れようと思った。しかしツレは怒り心頭で、その後30年に渡り、帰って来た時の惨状を言われ続けた。ツレの記憶には深く刻まれていたのだ。

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建築道(みち)33 ・・「ふくしまの家」設計コンクール

 建築士会福島支部主催設計コンペの2年後、県が主催となり「ふくしまの家」設計コンクールが行われた。それは木造住宅生産促進事業の一環として初めて実施されたもので、モデルハウスとして実際に建築する設計者を決める設計コンペだった。

 敷地は彼の故郷から8kmのニュータウン内で東南西の3面が道路に囲まれていた。西道路は1.4mほど低く、南道路は勾配で1.4m~0.4mほど道路が低くなっており、両道路とも一段上がった歩道があり車の乗り入れは出来なかった。さらに東は歩行者専用道路で、車の乗り入れは北東部からのみという特殊条件の敷地だ。3面道路であり、道路が下がっているため採光条件は良く、遠く西側に連なる山並みが美しかった。

 彼はコンペ主題を「福島における地域型住宅とは何か?」を問うと捉え、地域型住宅を「場所のチカラを引き出す建築」とした。課題の「ふくしまの家」は敷地及び周囲の状況をどう活かすかが重要で、県内のどこにでも建てられる企画型モデルハウスとは違うと考えた。常々、彼は敷地と住人の個性を大事にし、「この場所でこの家族だからこのようにした」というものをと心がけていたからだ。

そんなことから敷地及び周辺環境から「ふくしまの家」設計コンクールに「1階に玄関がない」計画で挑んだ。普通に考えると玄関は北東部。しかし北東部入りは敷地が持つ開放性からすると裏側から家に入るようで不自然に思った。そこで彼は敷地と道路の高低差を利用して西側地下玄関とした。そしてカーポートと西側ポーチを屋根が掛かる外階段で繋いだ。カーポートは3台分北東入りとし、2台分は屋根を設け、多目的にも利用可能とした。地下玄関から屋内に入ると、2階トップライトから階段室を通し光が落ちてきて、住居全体を中央から照らす。さらに通常使用居室をすべて南向きとした。ダイニングキッチンに家事コーナーを設け、サービスヤードと外物置と繋げる。そして1階からも2階からも西側山並みを望む窓を設け、福島の四季の移ろいと共に住み続ける家とした。

1995年「ふくしまの家」最優秀作品

 応募作品27点の内、西側玄関は1点のみ。敷地調査で感じた不自然さが功を生じ、設計コンテストを制することが出来た。春に発表され、冬に実施設計図書が完成した。工事監理は別との事で、少し釈然としなかったが、翌年工事着手して完成へと進んだ。その後に彼は「あの時たとえ波風が立とうが押し掛け工事監理をすべきだった」と後悔し続けることになった。

しかしいずれにしても、この4年間に3回の設計コンペ参加で、彼が設計者として生きて行く方向性が定まったと言える。

1996年「ふくしまの家」工事中

1995年「ふくしまの家」設計コンクール最優秀作品 2023年11月撮影グーグルマップより

 

建築道(みち)32 ・・50年先も青年でいたい!

福島県住宅供給公社の高齢化対応型戸建住宅設計コンペが2位に終わってから、もんもんと1年半を過ごした。するとその悔しさを晴らすことが出来る千載一遇のチャンスが訪れる。初冬、建築士会福島支部主催設計コンペが開催された。

 

それは、

・・21世紀に向けて提言する・・建築士としての夢発見「私の住みたい家(老人同居)」

あなたの理想とする家を、そしてあなた自身の素敵な夢を自由に表現して下さい・・

という設計コンペで、

東と南道路298㎡の敷地に自由に夢を語れというものだった。

 

そこで・・・

 

◇「50年先も青年でいたい!」

「私達は朝陽のスコールと明るいザワメキの中、一日が始まる。陽の光が前向きに生きてゆくエネルギーになるのだ。

外での戦いに疲れ、オアシスに辿り着く。家族は大黒柱のもとへ集い会う。そして今日の出来事を話しながら、それぞれの趣味を持ち寄るだろう。そんな中子供たちは育ち、光の下で歴史は積み上げられる。

子供は陽に向かいて闊達に育ち、歳老いても青年の心を持ち、光の下で歴史は積み上げられる・・・。

朝陽に向かって飛び出しそうな、そんな前向きな人生を送りたい。そしてそんな家族でありたい。」

 

・・・との、難解なコンセプトで挑む。

すると・・・

 

◇審査員講評 審査委員長 深瀬啓智氏

最優秀となったこの作品は家族とは何か、家庭生活はどうあるべきか、かく在りたいという生きてゆく哲学と、そのコンセプトが的確に把握され、巧みに表現されている。家族と家庭でのみ可能な楽しく温かみのある、そして年老いても若々しく生きていきたい、そんな雰囲気のある優れた案である。

大黒柱のある吹き抜けのある明るい居間を中心とし、車庫・アプローチ・居間・食堂と緩いスロープで連続させながらその高低差を生かし、変化に富んだ豊かな空間構成となっている。特に多用しているスロープは車椅子のためではなく、豊かな空間構成の手だてとした巧みな手法で、結果として車椅子での生活でも楽しめる味わいのある案である。

高低差を利用したアプローチ、庭、テラス、居間、食堂から見え隠れする雰囲気も楽しげで、敷地の使い方、住宅と庭とのバランスもよい。

住宅の高低差を生かしたデザインもプレゼンテーションも丁寧で上手に表現されている。

 

・・・という身に余る素晴らしい講評を頂く。

1995年建築士会福島支部設計コンペ 最優秀作品

 

建築道(みち)31 ・・設計コンペでの贈り物

 もう少しで21世紀を迎えようとしていた頃、この国ではバブル崩壊真っ只中にあり、都市銀行住宅ローン変動金利が1990年8.5%に上昇、その5年後には2.625%と急降下した。その間には、「ちびまる子ちゃん」のTV放送が開始され、宮沢りえ写真集が出版され、きんさんぎんさんが人気者となり、Jリーグが開幕して、非自民の細川政権が生まれ、阪神・淡路大震災発生、という怒涛の5年間だった。そして少子高齢化による人口減少の足音も聞こえ始めていた。

 そんな時期に彼は設計コンペにのめり込んでいく。切っ掛けは福島県住宅供給公社主催の設計コンペ。それは「急激に進む長寿社会の中で高齢者が家族とともに生きがいを持ち、ゆとりのある社会生活をおくることができる高齢化対応型戸建住宅を啓蒙、普及を図る」ことを目的とした住宅設計コンペだった。それは福島県内における住宅設計コンペのさきがけだったと思う。

 当時から彼は建築設計で何かを成したいと思っていたが、それが何かが分からず迷路をさまよっていた。もしかしたら、この迷路の道標になるかも知れないと思い、その設計コンペの参加を決めた。それは独立から2年が過ぎようとしていた時だった。 

 修行時代から彼は「明るく広がりのある空間」の建築設計を心がけていた。そのための手法として①アール (円)を取り入れた平面計画や、②階高に変化を持たせるスキップフロアや、③外部との一体感と家族のプライバシーを守れるコートハウス(中庭型住空間)などを駆使した。

 今回の高齢化対応型戸建住宅設計コンペのテーマから設計コンセプトを「生きがい空間のすすめ」とし、二世帯住宅の高齢者スペースに「寝室+αの部屋」を設けた計画とした。それはピアノや書道教室、碁や将棋の場、お茶や酒盛りの場や、アトリエやギャラリー、小さなお店などいろんな風に自由に使える空間とし、その高齢者コーナーと家族空間をアールの半屋外空間で結び、付かず離れずのほど良い距離感を持つ2世帯住宅とした。それは前年イタリア研修の衝撃の学び(建築道30参照)から和風外観とした。

 計画を進めている最中、突然に元職場の別支店設計者から電話があった。「本社設計部で計画したコンペ図面を書く事となり、どう書いたら良いかを教えて欲しい」との内容だった。本社設計部は自分の勤務した部署で、前職場と元同僚もライバルという事を知る。そして福島県の設計コンペであって他県の設計者とも競争になるという現実を認識した。彼は電話で課題図面の書き方をアドバイスした。

1991年福島県高齢化対応型住宅設計コンペ入選案

 それから2週間ほど後に、2晩ほど徹夜してコンペ作品を仕上げ郵送で提出した。彼は自分が納得いかない作品が設計コンペで選ばれるはずはなく、そんな作品を提出しても意味がないと思っている。そのため期限ぎりぎりまで粘り、直前はいつも徹夜となった。

 3月始めにコンペ結果が発表された。40作品応募で2位入選。福島県のコンペで結果を出したことは嬉しかったが、最優秀は前職場と元同僚の案だった。自分の設計コンペへの取り組む姿勢の甘さを痛感し眠れなくなる。そして「このままでは終われない」と思った。今にしてみれば、この屈辱が彼の建築家としての方向性の道標になった。そして「競争の厳しさ」を知らされた。それは前職場からの贈り物だったように思っている。

建築道(みち)30 ・・イタリーの衝撃

 その昔、都市国家が乱立していたイタリア、行く先々の街が違う顔で、特に小さな街は個性的表情が際立つ。彼は夢中でカメラのシャッターを切り続けた。

 バスは花の都フェレンツィから90km程のピサを廻り、シエナに向かう。

 ピサは大聖堂で揺れるシャンデリアを見て振り子の法則を発見し、斜塔で落下の法則の実験を行い、宗教裁判の際に「それでも地球は回る」と言い放ったガリレオ・ガリレイが生きた街。その大聖堂と斜塔を見学し、塔を支えるお決まりの写真を撮ると、突然カメラが動かなくなる。電池切れだ。当時はデジカメでなくフイルム式カメラだったが、彼はフイルム式カメラが電池切れになるという認識がなかった。カメラは1台しか持ってきてない。このピンチに彼は慌てた。まさかそこら中が絵になるような所でカメラの電池切れになるとは・・・。おまけにそれはボタン式電池だった。言葉が通じないところでボタン式電池を見つけ購入するなど至難の技。カメラとボタン電池を手に可能性のある店を片っ端から探し廻った。何軒かのところで発見!無事カメラが動き出した。彼は「グラツィエ、grazie、サンキュウ ベリーマッチ、ありがとう」と連呼した。それは砂漠で井戸を見つけた様な感覚だった。それ以来、旅には2台か3台のカメラを持って行くことにした。

 しかし喜びもつかの間、ピサの斜塔の公園に戻るもすでにツアー一行の人影がない。一行はすでに別の場所に移動していた。彼は電池切れ以上のパニックになり、慌てて周辺を探すが見当たらない。・・・少し冷静になると「到着した同じ場所から1時間半後にバスが出発する」という事を思いだす。彼はバス出発場所を確認して、ピサのドゥオモ広場や先程回った土産物屋をじっくり回り、ツアー一行を待った。ピサからシエナへのバス車中で「見かけなかったけど?」などと言われたが「ドゥオモ広場をじっくり見学」などと平静を装った。

 扇状に傾斜している勾配のカンポ広場が中心の街シエナ。17のコントラーダ と呼ばれる地区に分かれている。夏に2回パリオと呼ばれる祭があり、祭りメインの広場外周を廻るコントラーダ対抗の競馬が有名・・そんなシエナに冬に一泊。早朝に丘の丘陵地にサン・フランチェスコ聖堂のあるアッシジに向かう。アッシジは眼下の農耕地に靄がかかり幻想的風景を見せてくれた。その後一路ローマに向かう。「全ての道はローマに通ず」などと思いながら意識が薄れ車中爆睡となる。

 気が付けばあのオドリー・ヘップバーン休日の都市ローマ。オードリーと同じ場所を巡る。スペイン階段付近で怪しげな人影が彼ら一行の後に付いてくる。ガイドが「スリがいるので気を付けて」と言う。彼はリュックを確認、怪しげ人等をにらむ。やがて彼らの警戒に諦めたのかいなくなった。一行は「バルカッチャの噴水」で後ろ向きにコインを投げ、再びここに来ることを祈った。しかしオードリーの様にジェラートを食べることはしなかった。カトリック教徒の総本山バチカンサン・ピエトロ大聖堂には度肝を抜かれた。彼は信者ではなかったが、内部に入ると壮大で厳かな雰囲気が「神の存在」を思わせた。彼は京都・西本願寺でも同じような感覚になったことを思い出した。

 始めての欧州、イタリアはどこに行っても素晴らしかった。BC6世紀から続く繁栄の歴史に圧倒され続けた。欧州に留学した建築家は帰国すると和風建築を作るようになると言うが、合点がいく。この環境の中で生まれ育った建築家と欧州建築デザインを競っても勝てるはずがない。自分の生まれ育った文化を基礎とする建築の追求無くしては勝負にならない。西洋かぶれは本物にはなれないと悟った。彼にとっての今回の旅は、今までのデザイン手法を見直さなければならないほどの衝撃だった。

1990イタリア ローマ コロセウム

 余談だが、

 イタリア研修旅行の40日ほど前、彼は劉邦M氏〈建築道16参照〉と酔った勢いで「1か月で10kg体重を落とせるか」の賭けをした。その時の彼は結婚後8年間で15kg太り、運動不足も甚だしかった。一方、M氏は痩せていて1か月で10kgも体重を下がるなどイメージできなかったと思う。しかも年末年始の普段なら増える時期に。それから1か月、彼は朝食以外を蕎麦食とし、朝にジョギング、夕方には直前に入会したスポーツクラブでジム・水泳・サウナを毎日こなした。そして研修旅行3日前に1か月10kg減量を達成!し、ただ酒をゲットした。しかし急激に痩せたことからズボンがぶかぶかとなるなど、ファッショナブルなイタリアでの服に困ることになる。さらに急速減量による腰の違和感も抱えての旅立ちとなった、重い鞄を持って。心身ともにハードな「イタリーの旅」だった。しかし帰国時には3kg太ったことはM氏には伝えず土産を渡した。半年後には元の体重に戻ってしまったのだが・・・。

 

建築道(みち)29 ・・イタリーにランバダがこだまする

 彼が持って行った革製大型旅行鞄はショルダー型のスーツ・ジャケットも入れられる優れもの。英国製メーカー品で物も良く格好も良い。しかし重く大きく邪魔になる。その鞄は自分で持つという前提にない、重すぎる。彼の家では、それは「使えない」や「無駄」の象徴になった。一家はそれを形容詞に使う。例えば「それはまるで、あのでかいバックの様につかえない・・」と言うように。これまでその旅行バッグは5回しか使ったことがなく、その記念すべき1回目がこのイタリア研修旅行。その後3回は彼が使用し、長女が1回使用した。彼女が「重すぎて体を壊した」と話すほどそれは恐ろしいバッグだ。しかしそれを使うと時折「イギリスのメーカー品なんですね」とか「格好良いですね」とか「こんな大きなバックも出しているんですね」とか言われることがあり捨てられない。そんなバッグに初日購入の建築専門誌を潜ませイタリアを廻る修行の旅は続く。

 ミラノから水の都ヴェネツィアへ。海からの玄関口のサン・マルコ広場につく。そこは寺院、宮殿、大鐘楼や時計台が並び、美しいアーチ天井の回廊と喫茶店に囲まれる世界で最も美しい広場と言われている。市街地では車は通れず(通行禁止)、その代わりにゴンドラや水上バスが行き来する。路地と運河が重なり、所々に小さな広場がある。路地には様々な土産物店が並び、2階から上が住居で、屋上部にアルターナと呼ばれる物干し場風ベランダがある。彼はこのアルターナが気に入り、帰国後に何度か建築計画に取り込んだ。

 毎年地盤が沈むヴェネツィア、1階が使えない建物もあった。その滅びゆく街並みが一層心に沁みる。しかるにゴンドラの船頭や乗客がカンツォーネを歌い出すと周りは笑顔に満ちていた。「イタリア人はいつもこんなに食べるんだろうか?」と思う夕食の後、宿にチェックイン。部屋は水路に面する最上階(小屋裏)でドーマーから水上バスが見えた。その後、ステンドガラス輝く夜の街を散策、霧の中に鐘の音が聞こえ、そこは別世界だった。15年後、長女は大学ゼミで「ヴェネツィアの都市計画」を専攻、夏休み調査研究と称して7日間滞在、その後フランスへという大胆な旅をした。1日しか滞在できなかった彼が羨ましがったほどヴェネツィアの街は素晴らしかった。

1990イタリア ヴェネツィア

 次の日、水上バスと観光バスを乗り継ぎ花の都フィレンツェへ。そこはカラヴァッジオダ・ヴィンチミケランジェロボッティチェッリレンブラントラファエロゴヤ等々・・と、巨匠名画が洪水のごとく押し寄せる芸術の街。あまりの衝撃でミケランジェロ広場からの市街地の素晴らしさ、ゴシック建築物として有名な巨大なドームの大聖堂とヴェッキオ橋くらいしか記憶にない。そして25年後、それらを補うように再び花の都へ行く。何度行っても素晴らしい、あーあー愛しきフィレンツェ

 イタリーは明るく陽気で華やか。夏開催予定のサッカーワールドカップでどこに行ってもサッカーの旗がたなびいていた。そしてどこの街角でもランバダの曲が流れていた。彼はホテルディスコで白人女性とランバダを踊り有頂天になる。日本では半年後に大流行するが、彼はそれを聞くたびに情熱の国イタリーを思い出した。

 ベルリンの壁崩壊から冷戦が終わりこれから平和な世界が訪れるとみんなが思った。イタリアでのワールドカップは西ドイツが優勝し10月にはドイツが再統一した。そしてその3年後にEU(欧州連合)が生まれる。その時のランバダは欧州全体の「喜びの歌」のようだった。

 ターラ ラララ ララララ らー・・・♪

 

※訂正

家族から文中の「革製大型旅行鞄は英国製でなく米国製」との指摘を受けました

 

 

建築道(みち)28 ・・ベルリンの壁崩壊80日後のイタリーへ

 日本のバブル崩壊寸前1989年11月、欧州では突然に東西ドイツを遮断していたベルリンの壁が崩壊した。それは第2世界大戦後の東西冷戦の象徴。それにより欧州を分断していた鉄のカーテンがほころび、その後一気に消え去ることになる。壁崩壊直後に彼は前職場の友人からイタリア研修ツアーの誘いを受けた。それは建築設計者とインテリアデザイナーが対象の研修ツアーで、ミラノからローマの建築を巡る8日間の旅だった。それまで欧州に行く機会が一度もなかった彼は「少し無理をしてでも今の欧州を見るべきだ」と思った。くしくもツアー日程の1月終わりから2月にかけては福島での建築オフシーズンでもあり、迷わず申し込む。しかし独立1年目でまだ生業も定まらぬ時期。ツレは良い顔はしなかった。しかし「今の欧州を見たい!」「これは建築デザインのため」「事務所の未来のため」との大義を掲げ、粘り倒し何とか説得に成功した。直前に所有株を売却したタイミングも功をそうした。こうしてドイツのベルリンの壁崩壊直後に友人2人と30名くらいのツアーで欧州イタリーに飛び立つことが決まった。彼にとって新婚旅行、社内旅行に続き3度目の海外となる。

 現在の欧州への航空路はロシア上空を迂回しているように、当時もソ連上空を飛ぶことは出来ず、成田からアンカレッジ、ロンドン経由でミラノに向かった。途中、経由地の極寒アンカレッジではブロンド美女の売店でワインを味わい、トランジットのロンドンでは彼の英語がまったく通じずショックを受けた。そしてベルリンの壁崩壊80日後のイタリーに降り立った。そこではイタリア人は彼の英語を真剣に聞いてくれ、到着したミラノでは片言英語が通じ彼は一層上機嫌になった。

イタリア ミラノ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガッレリア

 夕方ホテルに着き、近くの有名アーケード(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガッレリア)を一人歩き。そこは何もかもが美しく洗練されて見えた。そこで小さな本屋に立ち寄る。内部はイタリア語の本が並んでいたが、彼は一角の盆栽本コーナーを見つけ釘付けになる。日本ではあまり見かけない、いや、あるのだが目に入らないのだろう。その時の彼は、ガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われたアーケードと石造り建築の見事な壮大なハーモニーに押しつぶされそうになっていた。そんな中での盆栽コーナーは彼にとっては砂漠の中のオアシス、忘れかけた日本人のプライドを取り戻した気がした。盆栽コーナーの本がひときわ輝いて見えた。さらに気分が上がり彼はイタリア語建築雑誌等を数冊購入し本屋を後にした。そしてその数冊の建築関係本を持ちイタリアを1週間廻ることになり、本の購入はイタリアを離れる直前にすれば良かったと後悔することになる。彼はスーツケースでなく革製大型旅行バックだったので、それ自体が十分重かったのである。 

イタリア ミラノ~ベネチア 右が筆者